水の街 序
ひさしぶりに水の街を訪れた。海抜〇メートル、黒い水の流れに帰ってきたという安堵があった。
予約を入れておいた老舗旅館「睡蓮」にむかう。街には橋がひとつもないので(どうしてだろうね?)水路で隔てられた隣の区画には、渡し船でゆくことになる。宿泊の手続きを済ませてから、中二階の喫茶室で熱いコーヒーをいただく。木製の椅子が一脚置いてある階段の踊り場では、未亡人の幽霊が床に両膝をついて亡き夫のカケラを拾っていた。
六畳の和室だった。障子のやわらかな光を受けて、今日の出来事を手帳に記入する。上半身を反らすようにしてふり返ると畳の上に眠りの鋳型を見つけた。小さな誘惑に体を沿わせてみると全身がぴたりと収まった。万有引力の法則ではなくて、水の浮力が支配する世界だった。天と地がひっくりかえる。澄んだ水音に包まれて、畳の上で眠るわたしを見上げていた。〈水の浮力〉は偉大だ。
詩作メモ
水の街のイメージを時間をかけて育ててみたい。
水の浮力が支配する世界
詩の後半「水の浮力」のパートは夢での体験をそのまま組み込んだ(最近見た夢です)。詩的な文章だけでは分かりにくい内容だったかもしれない(分かりました?)。このパートは眠っている「わたし」と目覚めている「わたし」、互いに独立したふたりの「わたし」がモチーフになっている。それを客観的視点(重力を基準にした世界)から図にすると次のようになる。
図1:客観的視点(重力を基準にした世界)。
オカルト的な現象として、ベッドで眠っている自分を天井の方から見下ろしていた、というような体験が語られることがある。でも、ここでの出来事は、それとは少しちがう。そこでは重力が無効になり、それにかわって「水の浮力」が世界を支配する。図1を目覚めている「わたし」の視点(「水の浮力」の世界)から描きかえると次のようになる。
図2:目覚めている「わたし」の視点(「水の浮力」の世界)。
ひとは引きよせられている方向(あるいは押しつけられている方向)を感覚的に「下」と判断する。通常の世界では、地球の重力によって物体は地球の中心にむかって引きよせられるので、地面や床、あるいは畳が「下」になる。「水の浮力」が支配する世界では、その浮力によって目覚めている「わたし」が天井の方向に引きよせられる(あるいは押しつけられる)。つまり、目覚めている「わたし」にとっては、天井が「下」になる。
夢のなかでそのような体験をしたとき、はじめは部屋(和室)の上下がひっくり返ったのだと思った(感覚としてはそういうことになる)。目覚めている「わたし」は、畳の上で眠っている「わたし」を見上げて、なぜ落ちてこないのか不思議だった。どうして? と考えはじめたとき、ああ、これが「水の浮力」なんだと理解した(いかにも夢らしい思考の飛躍…)。
目覚めている「わたし」は「水の浮力」に支配されていて、畳の上で眠っている「わたし」は重力に支配されている。眠っている「わたし」と目覚めている「わたし」は、互いに支配されている法則が違う。「水の街」は、そのような、ふたつの法則=世界が混在する(混在可能な)場所なのだろう(夢って不思議で面白い…)。
参考:物理学の世界では、重力が無効になるような状況では浮力もまた発生しません。ここでの「重力が無効になり」や「水の浮力」などの表現は夢のなか特有の出来事「夢のリアリティ」として理解して頂けるとさいわいです(夢には夢の真実があるというのがわたしの考えです)。
ご案内
- 次回 ご無沙汰しております
- 前回 メランコリック・ミステリー・ゲーム
- 詩 目次
関連の詩
- とある家の水槽のこと [水]