青の故郷と糸の鶴
高校二年の春にクラス委員長に選任された。それが原因とも思えないのだが、浮遊感を伴う眩暈に悩まされるようになった。真夜中に部屋の電気を消して星空を眺めてみても、以前のようにわくわくしない。
午前の授業を無難にやりすごしたとしても午後の授業はどうにも冴えない。数学の先生の髪は栗色のソバージュで、そのなかに極小の文字で百以上の数式が騙し絵ふうに編み込まれているという凝ったものだった。でも、そのうちのいくつかには初歩的な誤りがあり、その事実がわたしを悲しませた。先生、その式は間違っていますと耳打ちするかわりに、吐き気がするので保健室に行ってきます告げて、そのまま教室を出た。
渡り廊下を通って旧校舎の保健室を訪ねると廊下に長い列が出来ていた。臨時の健康診断でもおこなわれているのだろうか? いったん二階まで上がり、スカボロー・フェアを口ずさんでから戻ってみると誰もいなくなっていた。みんなどこに消えた? 再び二階に上がり、立ち入り禁止のロープが張られた三階への階段を駆け上がった。いまは使われていない音楽室と美術準備室のあいだに肩幅ほどの上りの階段を見つけた。探していたものに、やっと出会えた。
見上げたその先の薄暗さにこころが躍った。ひたすら上がってゆけばよい。あんなに遠くに、ああ、燃えつきてゆく熱狂が…… 時代よ、生命の擾乱よ! 海抜三千六百五十メートル。引き戸を開けると八畳の和室だった。炬燵、火鉢、箪笥の上にはガラスのケースに収められた日本人形が置いてある。あれ? こんな部屋だとは想像していなかった。障子の目映い白さが距離の感覚を狂わせた。ああ、また眩暈だ。炬燵に入って休むことにした。夜まで待たなければならない。
渓谷の奥深く、苔むした巨岩の上に〈糸の鶴〉が舞い降りた。全長五センチメートル。ルーペで拡大して眺めてみると、その緻密な造形に誰もが驚くだろう。正確なスケールで再現された「丹頂鶴のミニチュア」にしか見えないのだ。でも〈糸の鶴〉は人工物ではない。まぎれもない有機生命体であり、生物学上はキノコと同じ菌糸類に分類されている。
〈糸の鶴〉は大気に漂いながら成長する。大気中の微細な塵、つまりミネラル成分とアルゴンを取り込んで成長することが分かっている。個体の成長と漂う高度には相関関係があり、成長するに従い高度を上げてゆく。成熟した個体では対流圏を脱して成層圏にまで達する。豊富な紫外線により組織を変成させるのが目的と思われるが、その仕組みについてはよく分かっていない。成層圏で成長を終えた個体はゆるやかに降下をはじめる。降下の速度は形態と密度の個体差のために一定ではないが、地上に到達するまでほぼ十六年の時間を要する。
地上に舞い降りた〈糸の鶴〉を見ることが出来たものは幸せである。研究者なら誰もが口をそろえてそう言うだろう。研究者であっても〈糸の鶴〉を実際に見たものは、きわめて限られる。また〈糸の鶴〉には標本が存在しない。よってそれらの証言が錯誤や幻覚、捏造された写真やヴィデオではないかという指摘があとをたたない。
なぜ〈糸の鶴〉には学術標本が存在しないのか? それは〈糸の鶴〉に備わった特異な条件反応に由来している。きみが公園の芝生の上に〈糸の鶴〉を見つけたとしよう。きみは〈糸の鶴〉を好きなだけ眺めることが出来る。〈糸の鶴〉に自力で飛翔する能力はないのだから、きみが近づいても飛び立って逃げてしまうことはない。そのつもりになれば写真に撮り、ヴィデオに収めることも出来るだろう。〈糸の鶴〉の神秘的な造形は、きみのこころをつよく魅了するだろう。きみは手を伸ばし〈糸の鶴〉に触れてみようとする。その瞬間〈糸の鶴〉は菌糸同士の結合をほどいてしまう。
一本の細い糸が地上にむかって伸びてゆき、毛糸玉をほどくみたいに〈糸の鶴〉はその美しい形態を喪失する。そのとき総体としての〈糸の鶴〉は死んでしまう。ほどけた「糸くず」は風に舞い上がり、切れ切れの微細な繊維状の断片になる。そして大気中を漂いながら長い時間をかけて〈糸の鶴〉に再生する。太古のむかしから〈糸の鶴〉はそのようにして生きてきた。〈糸の鶴〉を採取することは誰にも出来ない。〈糸の鶴〉の標本はどこにも存在しない。いいかい、〈糸の鶴〉の死は君の死の身代わりだったんだ。
淡い光のなかで目を覚ました。眠りながら泣いていたのかもしれない。頭がひどく混乱した。よくない徴候だ。冠水瓶の水をひと口いただいた。右手で左手をつよく握りしめる。だめだ、焦燥感に煽られた。夜を待たずに障子を開けた。高度一万五千メートル。冷たく澄んだ大気の腕に力強く抱え上げられて、そのまま窓の外に転落した。何度も夢に見た光景だった。怖くはなかった。わたしはこの空の〈群青〉をよく知っている。なにを怖れることがあるものか、落ちてゆけ! わたしもまた誰かの死の身代わりだったのだろうか? わたしは、それを確かめる術を知らない。
夕暮れの路地に立っていた。ここがどこなのかは分からない。手に学生鞄を持っていた。どうやら下校の途中らしい。街をかこむ青くかすんだ山並みを見上げた。これから帰る家を探さなくてはならない。
詩作メモ
〈糸の鶴〉の挿話は夢での体験がもとになっている。鮮やかな緑の苔の上に見つけた〈糸の鶴〉は幻のように美しかった。夢での出来事をありのまま語ることはむつかしい(詩に組み込んだ内容とはいくらか違います…)。
あのとき旧校舎の三階の窓から転落したのは誰だったのだろう? 誰でもない「あなた」のために、わたしは物語ろう……
ご案内
- 次回 レエン・コオト
- 前回 ご無沙汰しております
- 詩 目次
関連の詩
- 学校奇譚 [学校]
- 土曜日の放課後だった [学校]