箱男
箱男は走ることにむいていない だから今日もゆっくり歩く
夏は暑く 冬は寒い でも住処をなくす心配だけはしなくていい
箱男の半透明の小さな窓にも夕暮れの光が差し込む 鴉が鳴いた
手帳を開き思案する あなたは涙の隠し場所を執拗に探していた
誰からも隠されていて 迷子になっても見失わない場所がいい
あなたの涙を収めた葛籠は野の花で飾られ 河口の小舟に運ばれた
街の灯りが愛を語りはじめる頃 引き潮に乗って小舟は沖に流された
やがて野の花はしおれ 七日目の嵐の夜に波にのまれて転覆した
暗い潮のなかを泳ぐ贋魚があなたの涙を見つけ それを目許に飾った
贋魚が箱男の夢を見るとき あなたの涙は真珠のように輝いた
詩作メモ
箱男と贋魚の(ずいぶんと)ロマンチックな物語(安部公房『箱男』の変奏)。
贋魚は『箱男』「それから何度かぼくは居眠りをした」に登場する。浜辺に群生する貝殻草の匂い(花粉に含まれるアルカロイドの成分)が「贋魚の夢」を誘発するという。いったん夢の世界に引きこまれると、そこから目覚めることは容易くない。天にむっかって墜落(逆墜落)して、空気に溺れて死んでしまっても贋魚の夢は終わらない。
贋魚は、夢から覚める前に死んでしまっていたので、もうそれ以上覚めるわけにはいかなかった。死んだ後までも、まだ夢を見つづけなければならなかった。
永遠を泳ぐ贋魚の夢の只中で それとは知らずに眠る箱男が夢を見る……
この詩はマリア・ジョアン・ピリス Maria João Pires のピアノでシューマン『森の情景』を聴きながら仕上げた。
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