毛糸の帽子
みんなが毛糸の帽子を持っていた。わたしだけが、まだ持っていなかった。先日、やはり毛糸の帽子がほしくなって近所のスーパーマーケットに買いに出かけた。いろいろ迷って、チョコレート色の地に白いステッチの幾何学模様が入ったものを選んだ。
翌朝、毛糸の帽子をかぶって散歩に出かけた。休耕田に囲まれたいっぽん道を歩いた。西の方から暗い雲がやって来るのが見えた。冷たく湿っぽい風が吹きはじめた。やがて土埃を巻きあげる暴風になった。
まいったな、これ以上歩きつづけることは出来なかった。無理は禁物、風に背をむけて路肩にしゃがんだ。背中を丸くしてしゃがんでしまえば風はまったく気にならかった。強化ガラスの繭に守られているような安心感。耳元で風の音だけが、ごぉぉぉ、と激しく響いていた。毛糸の帽子のお陰だということはすぐに理解した。すごいや! もっとはやく購入しておけばよかったな。
荒々しい風の唸りに虻の羽音が混じって聞こえた。あれ? 空を見上げると銀色の旅客機が浮かんでいた。静止しているように見えるのは上空の気流と双発のプロペラの推進力が釣り合っているからだろう。危うい均衡だった。風への対処を誤れば、たちまち地面に叩きつけられるか、成層圏まではじき飛ばされかねない。
風はときおり残酷な遊びをする。世界の海と陸を循環する風は〈死〉の概念を持たない。だから、ひとの〈生〉の尊さを知ることもない。風には、わたしたちの生や死が大きな循環の一部分のように見えているのかもしれない。その予期しない死は、予期しない暴風のように循環の速度が一瞬早められただけで…… そんな理屈があるものか。
負けるな! こころの声が胸の痛みのように思われたとき、旅客機が翼を折りたたみはじめた。折り紙が折られてゆくように、銀色の旅客機は銀色の巨大な〈かざぐるま〉になった。美しい造形を凝視した。子供の頃、縁日で色とりどりのかざぐるまが一斉に回りはじめるのを見たことがある。あの瞬間と同じだと思った。風が生命を吹き込んだ。ひゅぅぅぅ、と甲高い音が灰色の空を切り裂いた。〈かざぐるま〉は自在に回転しながら宙を舞った。やがて遊び疲れたように休耕田に降り立った。
すべては毛糸の帽子が見せてくれた幻なのだろうか? それを見分ける術をわたしは知らない。
詩作メモ
ひとにとって心地よい風もあれば、厳しい風もある。ひとの自由を疎外するような風から物語を派生させてみたい。風は大気の循環(自然現象)にすぎないけれど、そこには、ひとのこころと深く関係したなにかがあるように思う。
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