学校奇譚
わたしの通うM高校の保健室は日々成長しているらしかった。単純にベッドの数が増えているということではなくて、原生動物が養分を捕食するように隣室を浸食しながら室内の構成要素を有機的に変化させているようなのだ。静寂に満たされた空間とは対照的なめまぐるしい変容。入室は容易くても、興味本位の物見はおすすめしないな。きみの背後で壁や棚が音もなく移動しているところを想像してごらんよ。そのまま無限迷路に幽閉されてしまったらどうする? 生徒諸君、ご注意を!
「お昼まで、こちらで休むことにしました」
保健室の変容について県教育委員会のお偉いさんたちは無視をきめこんでいるようだけれど、それ以上に問題だと思うのは、ここを訪れる生徒たちのことなんだ。雨に打たれた古新聞のような疲労が彼らの(彼女たちの)お仕着せの制服だった。疲労の鋳型に鋳られたものは、もはやどんな主観的未来も持つことがないという。したがって最小限のどんな客観的未来も実現することがない。それでも最小限の可能性だけは残されている。あとは眠るだけ、おやすみ、おやすみ…… ああ、この悲しみはなんだろう? いたたまれなくなった。
「トイレに行ってきますね」
あれ? まだ午前中のはずでしょ。廊下の窓から見上げた空は淡いスミレ色にたそがれていた。このまま夜が訪れるのかな? 黒服の用務員が慣れた手つきで中庭のガス灯に火を点けてまわる。時計の針が描く円運動と天空の星が描く円運動、ふたつの時がせめぎあって未来であるはずの〈夜〉を天空に先取りされてしまった…… 理由のよく分からない涙が頬を伝った。落胆するのはやめよう。この廊下のことだって気に入っていたはずなんだ。清潔に磨き上げられたリノリウムが天の川のように輝きはじめた。
詩作メモ
わたしたちの暮らす世界の空間や時間の在り方がすべてではないと思う。こちらの世界とはいくらか異なる空間や時間から派生してゆく「わたしの出来事~物語」について語ったみたい。
「疲労の鋳型に鋳られたものは、もはやどんな~」は、ジル・ドゥルーズ『消尽したもの』(白水社)の冒頭部分「疲労したものは、もはやどんな~」からの言い換え。
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