鞠二月二日堂

詩と芸術のブログ

ポー 「不穏な気配の谷」 The Valley of Unrest

 海外の詩の翻訳シリーズ。

 エドガー・アラン・ポー、第6回「不穏な気配の谷」 The Valley of Unrest (1845)日本語訳と解説(ポーの目次はこちら)。

 ※ ポーの詩のエッセンスが日本語の詩として上手く伝わるように表現を工夫しながら、自由なイメージで訳しています。解説、翻訳ノートとあわせてお読み頂けたらと思います。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 ※ 『対訳 ポー詩集』加島祥造編(岩波文庫)を翻訳と解説の参考にしました。

日本語訳 不穏な気配の谷

原詩 The Valley of Unrest

The Valley of Unrest
 Edgar Allan Poe

Once it smiled a silent dell
Where the people did not dwell;
They had gone unto the wars,
Trusting to the mild-eyed stars,
Nightly, from their azure towers, 5
To keep watch above the flowers,
In the midst of which all day
The red sun-light lazily lay.
Now each visiter shall confess
The sad valley's restlessness. 10
Nothing there is motionless—
Nothing save the airs that brood
Over the magic solitude.
Ah, by no wind are stirred those trees
That palpitate like the chill seas 15
Around the misty Hebrides!
Ah, by no wind those clouds are driven
That rustle through the unquiet Heaven
Uneasily, from morn till even,
Over the violets there that lie 20
In myriad types of the human eye—
Over the lilies there that wave
And weep above a nameless grave!
They wave:—from out their fragrant tops
Eternal dews come down in drops. 25
They weep:—from off their delicate stems
Perennial tears descend in gems.

 ※ 原詩は版によってカンマやダッシュ、字下げなどに違いがある場合があります。こちらでは『対訳 ポー詩集』で使われているテキスト Thomas Ollive Mabbott: Collected Works of Edgar Allan Poe, Volume I, Poems, 1969 に合わせました。

簡単な解説

 「不穏な気配の谷」 The Valley of Unrest は、初稿が1831年に書かれ、何度かの修正を経た後、1845年に完成して発表された。読者を物語世界に引き込む語りの技術=情景の展開がすばらしいと思う。

 この作品をいまふうに語れば「心霊スポット」の探索レポートといったところだろうか。でもそこに怪奇の印象はあまりなく、スピリチュアルな幻想=神話の世界へと迷い込んでゆく趣がある。

詩の主題

 加島祥造は解説で「Unrest(不安な)というが、特別になにが不安の原因なのか語られていないし、なにを象徴しているのかも定かではない」と語っていて、そのためだろうか、前半の訳はいくらか曖昧な印象がある。

 3~8行目を引用しよう。

人々は優しい眼つきの星々を信じて、
戦争に出かけてしまったのだ。というのも
それらの星は毎夜、蒼い空の高みから
花々を守りつづけ、昼はまたその花々に
赤い陽の光がのんびり差していたからだ。

 つまり、星が空の高みから花々を守りつづけたから、人々は(安心して?)戦争に出かけていったということ? 「というのも~」と言葉が補われているけれど、日本語の詩としても、いまひとつ意味(物語)がはっきりしない。

 詩の前半に組み込まれた flowers 「花」は、詩の後半で重要なモチーフとして登場する violets 「スミレ」や lilies 「ユリ」の伏線と考えるのがよいのではないか。スミレとユリには、それぞれ瞳と涙、「ひと」のイメージに結びつけられている。つまり、この花々は、戦争に出かけてゆき、谷へと帰ってくることがかなわなかったひとたちの「想い」の依り代[よりしろ](あるいはその化身)ではないだろうか。

 谷のひとたちは(詳細は分からないけれど)戦争へとおもむき、そして再び谷に帰ってくることはなかった(だから谷は無人になった)。ひととしては帰ってこれなかったけれど、その「想い」は野に咲く花に宿り(あるいは姿をかえて)、小さな谷=やさしい瞳の星たちのもとに、いまもありつづけている、そういうことではないだろうか。だから星たちは、あの頃と同じように、谷の人々=花々を見守りつづけているのだろう。

 ひととしての姿(存在)を持たない「想い」(オカルトふうに言えば「霊」や「残留思念」ということかもしれない)が谷に不思議な現象を引き起こす。でもそこに、怨念のようなおどろおどろしい悪意は感じられない(朽ち木が突然ひとにむかって倒れてくるようなことは起きない)。詩の結末で清楚なユリのイメージ(清純さの象徴)が提示され、それは露=涙、悲しみへと展開される。

 この作品は、そのような悲しくて切ない物語~伝説を背景にして歌われたものではないだろうか(皆さんはどのように思われますか?)。

翻訳ノート

 イメージの展開=物語が明確になる方向で、表現の細部に言葉を盛りつつ訳していった。

題名

 The Valley of Unrest をどのように訳そう…… 加島祥造訳は「憩いのない谷」、阿部 保訳(『ポー詩集』新潮文庫)は「不安の谷間」となっている。

 Unrest は、手持ちの辞書を見ると「(特に、社会的な)不安、不穏(な状態)」または「(心の)不安、心配」と説明されている。実際のニュアンスとしては「この谷って、なんかヤバくないか」みたいなことだろうか。客観的な状況というより、感覚的なものからもたらされる不安、不穏ということで「不穏な気配の谷」としてみた。

1~8行 谷の説明のパート

 1行目 silent は、ひとがいない静けさの意味で「沈黙」をあててみた。「沈黙の谷」とするときまりすぎるので「谷が沈黙のなかで~」と工夫した。

 3行目「戦争に出かけていった」と6行目「花たち」のところは、わたしの理解(解釈)を[ ]に入れて補った。いくらか余計なことにも思われるけれど、こうすることで詩の世界(その背景)が分かりやすいものになると思う。

 5行目 azure を一般の訳語「空色、淡青色」にすると Nightly 夜のイメージに合わない。この azure は鉱物の azurite アズライト「藍銅鉱」(群青)のことではないだろうか。わたしの好みで(雰囲気重視で) azure towers を「群青の楼閣」としてみた。

9~27行 谷の探索のパート

 14行目、17行目の Ah をそのまま「ああ」とすると、(詩の全体の流れのなかで)いまひとつしっくりこない。具体的なこころのつぶやきの表現(自然な日本語の表現)として「奇妙だな」「ほら」をあてた(このあたり、個人的な楽しみということで…)。

 16行目にやや唐突な印象で Hebrides 「ヘブリディーズ諸島」(スコットランド西岸にひろがる島々)が出てくる。加島祥造の解説によると「この詩はスコットランドの伝説に基づいて書かれたが、後にこのように変わった。その名残りがこの語である」とのこと(なるほど…)。

 17~19行目、「雲」のところは直感的に思い浮かんだ言葉をそのまま組み込んだ。「(雲の群れが)ざわめく空をはせてゆく」(加島祥造訳)ということだけれど、朝から晩まで雲がはせてゆく(駆けてゆく)ので、空(天)が落ち着きなく見えると理解してあのような表現にした。

 (ざわめく街を人々が足早に通りすぎてゆく→人々が足早に通りすぎるので街がざわめいて感じられる、街そのものがざわめいているわけではない、みたいなことです)

 21行目、スミレの花が myriad types of the human eye 「人間のさまざまな瞳」と表現されていることに注目しよう。花と人間(かつて谷に暮らしていたひとたち)との関連(つながり)が示唆されている。

 23行目 nameless grave は「誰のものとも知れない墓」くらいの意味だろうか。この墓は谷に人々が暮らいしていた頃の名残と思われるので「いまは訪れるひともいない墓に~」としてみた。

 24~27行目は、2行ずつがリフレインふうの組み立て(構成)になっている。わたしの訳もそれに倣った。原詩の言葉にはあまりこだわらず、わたしに見えてきた情景をそのままひと息に歌った。結果として Eternal 「永遠の」「果てしのない、絶え間のない」、 Perennial 「四季を通じて続く(切れない)」「長期間続く、永久の」は、それぞれ「尽きることのない」「途切れることのない」と訳された。これでよかったと思っている。

 加島祥造訳では Eternal 「たえず」、Perennial 「いつまでも」となっていて、このあたり、むりに(安易に)「永遠」を組み込まない方が表現として奥行きが出るのではないだろうか(詩の「永遠」の使い方はむつかしい…)。

 「不穏な気配の谷」 The Valley of Unrest を訳す作業は楽しかった。加島祥造は解説で「象徴派の詩を好む人には、これは小さな傑作と映じるかもしれない」と語っていて、わたしもそう思う。「小さな傑作」には大傑作(?)にはない親密な感情をおぼえる(わたしは The Valley of Unrest をとても気に入っている…)。

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