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詩と芸術のブログ

ディキンソン 「「希望」は羽をまとった姿で――」 "Hope" is the thing with feathers —

 海外の詩の翻訳シリーズ。

 エミリー・ディキンソン、第10回「「希望」は羽毛をまとった姿で――」 "Hope" is the thing with feathers —(254番 1861年)日本語訳と解説(ディキンソンの目次と年譜はこちら)。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 ※ 『対訳 ディキンソン詩集』亀井俊介編(岩波文庫)、『ディキンスン詩集』新倉俊一訳・編(思潮社)、柴田元幸訳(集英社『すばる』2013年2月号)を翻訳と解説の参考にしました。

 日本語訳 「希望」は羽毛をまとった姿で――

 原詩 "Hope" is the thing with feathers —

"Hope" is the thing with feathers —
That perches in the soul —
And sings the tune without the words —
And never stops — at all —

And sweetest — in the Gale — is heard — 5
And sore must be the storm —
That could abash the little Bird
That kept so many warm —

I've heard it in the chillest land —
And on the strangest Sea — 10
Yet, never, in Extremity,
It asked a crumb — of Me.

 ※ 原詩は版によってカンマやダッシュ、大文字、小文字の使い分けなどに違いがある場合があります。こちらでは『対訳 ディキンソン詩集』で使われているテキストThomas H. Johnson: The Poems of Emily Dickinson, 1955に合わせました。

 解説 言葉を持たない小鳥が与えてくれるもの

 希望(あるいはその裏返しである絶望)を語ることはむつかしい。手許の辞書で「希望」をみてみると「【希望】自分がこう成りたい、人にこうしてもらいたいと よりよい状態を期待し、その実現を願うこと」とある。願いはいつも叶うとは限らないので、あの日に思い描いた希望は未来の絶望へと容易に反転してゆく(魯迅先生は「絶望の虚妄なるは希望の虚妄なるに等しい」と語っておられましたね)。

 この作品で描かれる「希望」はどうだろう? ここでの希望は、あたかも絶望することを知らないかのように歌われる(わたしにはそのように思われた)。裏面(絶望)を持たないコインのような希望、そのような希望が果たしてあるだろうか? あるとすれば、それはどのような仕掛けになっているのだろうね? その秘密を探ってみたい。

 詩は3つの連からつくられていて、おおよそ「魂のパート」→「こころのパート」→「現実世界のパート」と展開してゆく。

第1連――魂のパート:希望の具体的な姿や特徴が描かれる。
第2連――こころのパート:大風、嵐(心理状態の比喩)と小鳥の歌声=希望の関係が語られる。
第3連――現実世界のパート:小鳥の歌声を聞いてきた「わたし」の体験が語られる。小鳥=希望はパンくず(お返し)を「わたし」に求めることはなかった。

1~4行 第1連

 1~2行目、「希望」は羽~羽毛に包まれていて、魂を止まり木にしている。詩はなぞなぞふうの描写からはじめられる。3行目 without the words その歌声は言葉を持たない(具体的な内容を含まない)。4行目 never stops 歌声は止むことがない(永遠性)。

5~8行 第2連

 5行目 in the Gale 大風のなかで(情動の高まりのなかで)、小鳥の歌声は sweetest もっとも愛らしい歌声(甘美な歌声)として聞こえる。「愛らしさ」は、8行目で「(こころの)あたたかさ」へと展開される(「希望」の「あたたかさ」への帰結)。6行目 sore 痛み(こころの痛み、傷つくこと)と storm 嵐(情動の激しさ)が結びつけられる。7行目、そのときの嵐は little Bird 小鳥(ここではじめて登場!)を当惑させるほどでなくてはならない(詩全体を通して眺めてみると、そのような嵐~情動の激しさは否定されているようです)。

 ※ 第2連の理解~解釈はいろいろあるようですが、詳細は翻訳ノートで語ります。

9~12行 第3連

 9~10行目、陸と海の情景~現実世界の苦境が呈示される。どのようなときも「わたし」は小鳥の歌声を聞いた。小鳥の歌声の愛らしさ、あたたかさによって、希望が失われることはなかった。11~12行目 in Extremity 追い詰められた境遇の支えとなった希望=小鳥は、一度もパンくず(お返し、感謝の気持ち)を「わたし」に求めなかった(最終行)。

 ここまで語ってきたことを整理して図にまとめておこう。

魂―小鳥―希望の関係

 魂―小鳥―希望の関係の図。

 これが「希望」というのもなにか奇妙にも思われるけれど、ここには希望を語る「言葉」がなく、小鳥の歌声を聞く「いま」だけがある。歌声は止むことがなく、未来の時間にむかって開かれている。だからといって、小鳥の歌声が未来になにか望みを託すわけではない(託すには言葉が必要になる)。言葉を持たないことで、小鳥=希望は未来に裏切られることがない。

 こころに大風が吹くとき(情動が高まるとき)、歌声はもっとも愛らしく聞こえるという。大風が嵐(情動の激しさ)になれば、こころや魂を傷つけてしまうかもしれない(ひとは自らのこころや魂を傷つけてしまうことがある)。当惑した小鳥は歌い止めてしまうのだろうか? 歌い止めることのない小鳥が…… 小鳥は歌いつづけ、「わたし」のこころはあたたかでありつづけた。こころがあたたかであれば、小鳥が当惑したり、傷つくこともないだろう(わたしの理解)。

 「いま」を歌いつづける小鳥の歌声によって、希望はその瞬間々々に「わたし」のこころに生起する。希望は「いま」に宿るといってもよいかもしれない。ここに、この詩で歌われる希望の秘密があるように思う。希望は(たぶん)現実世界に左右されない(こころの在り方には影響を受けるようです)。小鳥はどのようなときも歌いつづけ、「わたし」にパンくず(お返し、感謝の気持ち)を求めることはなかった。ディキンソンは希望の姿=ヴィジョンをそんなふうにわたしたちに伝える。

 参考:現実世界の出来事をこころが受容する。そのときのこころの変化(情動)が魂~小鳥に影響を与える(魂~小鳥は現実世界とは直接に接していない)。そのように考えてゆくと、この作品を理解しやすくなると思う。

 翻訳ノート

 「希望」「魂」「こころ」それらのヴィジョンがわたしのなかでくっきりと見えてきたとき、詩の言葉もなめらかに立ち上がっていった(そこまでゆくのに時間がかかった…)。

1~4行 第1連

 1行目 thing 「生き物」(亀井俊介訳)、「もの」(新倉俊一訳)、「やつ」(柴田元幸訳)、ということで既存の訳に倣ってもよいのだけれど、日本語の詩にはこのようなときに使える便利な言葉がいくつかある。そのなかから「姿」をあててみた(希望という目に見えないものに「姿」をあたえるということです、意味としてはそうでしょ)。同じく1行目 feathers 「羽、羽毛」、小鳥 → ふわふわのイメージで羽毛でもよいかなと思ったけれど、やや甘くなりすぎる気もしたので(無難に)「羽」とした。

 2行目 perches 「(鳥の)止まり木」、既存の訳は「魂の中にとまり」のような表現になっていて、どういうわけか「止まり木」が出てこない。わたしの訳では詩的な情景を大切したいので「魂を止まり木にして」と「止まり木を」組み込む表現にしてみた(止まり木にちょこんと止まっている小鳥、かわいいですよね)。

5~8行 第2連

 このパートは、日本語訳のピントがなかなか合わない感じで苦労した。既存の訳の第2連はつぎのようになっている。

そして聞こえる――強風の中でこそ――甘美のかぎりに――
嵐は激烈に違いない――
多くの人の心を暖めてきた
小鳥をまごつかせる嵐があるとすれば――

 ※ 亀井俊介

風の日にとても優しく聞こえる
こんなに大勢を慰める
この小鳥を当惑させる嵐は
よほど不機嫌にちがいない

 ※ 新倉俊一

いちばん 大風のときが こころよく聞こえる――
よっぽどひどい嵐でないかぎり
あの小鳥が 恥入ったりはしない
ほんとうに たくさんのひとを暖めてきたのだ――

 ※ 柴田元幸

 5行目 sweetest 「もっとも、とても~ 甘美な、声の美しい/気持ちよい、快い」くらいの意味だけれど、小鳥の歌声(さえずり)を甘美と表現するのはちょっと違う気がして「いちばん愛らしく」としてみた。「愛らしい」→「あたたか」と、8行目へのつながりもよくなると思う。is heard はこころのパートを意識して「(こころに)響いた」とひと工夫した(このあたり個人的な楽しみということで…)。

 6~8行目、既存の訳とわたしの訳は違うわけですが…… 原詩6行目が、なぜそのように訳してあるのか、わたしにはよく分からない。6行目は sore と storm が must be で結びつけられている。亀井俊介訳は「嵐は激烈に違いない」となっていて、sore に「激烈」のイメージがあてられている。新倉俊一訳「不機嫌」、柴田元幸訳「ひどい(嵐)」というふうだけれど、sore を辞書でひいてみると「【形】痛い、ひりひりする、心を痛める/悲嘆に暮れた/怒って」「【名】さわると痛いところ、傷/古傷、いやな思い出」「語源:古期英語「痛い」の意」とある。ここは、痛み(傷)の方向で訳すべきではないだろうか?

 第2連には Gale 「大風」と storm 「嵐、暴風(雨)」が出てくる。既存の訳は、大風や嵐を外的要因としてとらえて訳してあるように思われる(そのように解説してあるものもあります)。そうすると sore を痛みの方向には訳しづらい(意味が分からなくなる)。わたしもはじめは大風や嵐を「わたし」が置かれた状況(その比喩)と考えていた。だとすると、第3連で呈示された情景とその意味あいが重複することになる。むむ、なにかおかしい…… (詩を知的に組み立てるディキンソンらしくないといいますか…)

 5行目(第2連の冒頭)は大風のなかで小鳥の歌声がどのように聞こえるかが示される。これは物理的に聞こえるということではなくて、こころで歌声を聞く(こころに響いてきた)ということだろう。ということは、第2連は「こころ」のパートとして描かれているのではないか? 第1連「魂」から、第2連「こころ」への展開、そして第3連で「現実世界」の情景が呈示されたとすると詩の構成としても美しい(ディキンソンらしい)。こころに吹く大風や渦巻く嵐を情動の高まりや激しさ(心理状態の比喩)と捉えることで sore を痛みの方向で訳してゆくことが出来るようになる(よし、これでゆこう!)。

 6行目 sore を痛みの方向で訳して「こころが~」と、このパートの意図が明確になるように言葉を添えた。storm 「嵐、暴風雨/(感情などの)激発、あらし」は[情動の激しさ]と補足した。

 8行目、既存の訳では「多くの人の心をあたためてきた」(亀井俊介訳)というように so many が「おおくのひと」の方向で訳してある。翻訳のセオリーとしてはそうなのだろうか? 詩は希望に小鳥の姿~イメージを重ねあわせて歌われる。これは詩の語り手である「わたし」に固有の視点だけれど、これが第2連の終わりで客観的な視点(普遍)へと移行することの意味が分からない。ここの so many は「たくさんのあたたかさ」→「(こころが)あたたかさで満たされる」というようなことではないだろうか。

 参考:9行目 I've heard~ 12行目 of Me と表現されていることから、詩は「わたし」のパーソナルな視点から歌われていると考えるのが自然だと思う(5行目 sweetest なども主観的なニュアンスがつよい)。1~8行目を客観的な視点とすると、視点は以降の行に継承されてゆくのが一般的なので(長編詩では切り替わることもありますが)、9行目「わたしは聞いた」→「ひとびとは聞いた」、12行目「わたしに(パンくずを~)」→「誰にも(パンくずを~)」というふうになる(はず)。

 わたしの訳は原詩の行の配列に倣って訳すスタイルをとっている。6~8行目は1行ずつ訳してゆくと日本語の詩にならない。原詩の内容を尊重しつつ、適切な日本語の詩へと組み換える作業が必要になる。これがえらくむつかしかった。あれこれ20パターンぐらい考えて、いまのかたちに落ち着いた(このあたり、詩的感覚のお話になるので詳細は省略)。

9~12行 第3連

 9~10行目は現実世界の呈示(「わたし」が置かれた状況の比喩)なので、雰囲気のある(実感のある)訳をこころがけた。9行目 chillest  land は「すべてが凍てつく地」としてみた。10行目 strangest  Sea は、言葉を盛って(孤独な漂流のイメージで)「世にも奇妙な海をさまよっていたときも」と訳した。

 11行目 Extremity 「先端/(苦痛、悲しみなどの)きわみ/窮境、窮地」は、一般的な言葉「苦境」をあてた(追い詰められたニュアンスを汲み取って窮境と訳した方がよかったか… でも窮境や窮地は語感が好きじゃない… 「追い詰められた状況」などとすると長くなる)。

 12行目 crumb 「(パンなどの)かけら、パンくず」は歌声への感謝の気持ちと理解して[お返し]と補足した(いつも庭にやって来る小鳥に「来てくれて、ありがとう」とパンくずをふるまうようなことです)。12行目 of Me ここは原詩に倣って行末(詩の末尾)に「わたし」を置きたい(「希望」からはじめられて「わたし」で終えられる構成を大切にしたい)、末尾に置かれることを考慮して「わたしからの」としてみた。

 魂~小鳥は「わたし(こころ、自我)」になにも求めない。小鳥にとっては歌うことが生きることであり、生命とはそのようなものだと思う。ディキンソンの詩には魂の不滅を歌ったものもある。魂を止まり木にして歌いつづける小鳥=希望は、魂の属性(生来的に備わっているもの)ではないかという気がしている。「【魂】生きている動物の、生命の原動力と考えられるもの」と辞書にあるように、「希望」「小鳥の歌声」「愛らしさ、あたたかさ」「生命の原動力」、これらはひとつながりのではないだろうか。生命と希望は分かちがたく融けあっている。そこから言葉をもたないメロディが響いてくる。こころに生起する希望は尽きることがない(素敵な詩をありがとう、ディキンソン!)。

 今回は少々長い記事なった。では、これくらいで。

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