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鞠二月二日堂

詩と芸術のブログ

ディキンソン 「言葉は死んだ」 A word is dead

 海外の詩の翻訳シリーズ。

 エミリー・ディキンソン、第4回「言葉は死んだ」 A word is dead(1212番 1872年頃)日本語訳と解説(ディキンソンの目次と年譜はこちら)。

 ※ 『対訳 ディキンソン詩集』亀井俊介編(岩波文庫)を翻訳の参考にしました。

 日本語訳 言葉は死んだ

 原詩 A word is dead

A word is dead
When it is said,
Some say.
I say it just
Begins to live 5
That day.

 ※ 原詩は版によってカンマやダッシュ、大文字、小文字の使い分けなどに違いがある場合があります。こちらでは『対訳 ディキンソン詩集』で使われているテキストThomas H. Johnson: The Poems of Emily Dickinson, 1955に合わせました。

 解説 消えてゆく言葉 こころに息づく言葉

 わたしたちはコミュニケーションの道具(内容の入れ物)として言葉~声を使う。あなたがAさんに伝えたいことがあれば、あなたはその内容を言葉~声にしてAさんに伝える。Aさんは、あなたからの言葉~声を理解して、その内容を了解する。コミュニケーションは上手くいった…… では、伝達の役割を終えた言葉~声はその後、どうなるのだろう?

 お客さん、列車が来ましたよ!
 そして、次の瞬間、こどばは死んでいる。

 ※ 村上春樹街と、その不確かな壁」より。

 語られて役割を終えた言葉~声は空間に拡散して、あるいは吸収されて消えてゆく物理現象として消えてゆく言葉)。わたしたちにとって大切なのは言葉そのものではなくて、その中身~内容なので、一語一語の言葉は必要に応じて要約~簡素化されて個人の記憶に残される(記憶からこぼれて消えてゆく言葉)。「一秒ごとにことばは死んでいく。路地で、屋根裏で、荒野で、そして駅の待合室で、コートの襟を立てたまま、ことばは死んでゆく」(「街と、その不確かな壁」)と言われれば、まあそうなのかもしれない(いったん記憶された言葉も、そのおおくは時間の経過とともに薄れて消えてゆく…)。

 でも、このような内容の入れ物としての言葉~声の在り方がすべてかというと、そうではないと思う。たとえば詩の場合、歌われる内容はもちろんのこと、一語一語の言葉の重みや輝きもまた、おおきな役割を担っている。大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(なにやら大仰なタイトルがつけらた小説ですが…)では、そのような詩の言葉について次のように語られている。

 詩の言葉においては、機能[内容~イメージを伝達する道具としての言葉]が問題たることはもとよりであるにしても、実質[一語一語の言葉の重みや輝き]もまたおおいに問題なのだ。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 詩にも言葉の機能によって表現される内容がある。でも、それだけには収まらないところが詩の魅力だと思う。日常の言葉からは隠されている一語一語の言葉の重みや輝き、言葉そのものに内在されている〈言葉の力〉が詩の内容とひとつとなって、わたしたちのこころに働きかける。

 (……)詩は、真にそれを読んだ者にとっては言葉の実質と機能がそのままひとかたまりの錘となって、肉体=魂のうちにしっかりくいこんでしまうのである。そこで、詩には、読みおえるということがない。いったん人間が詩に遭遇すると、その出会いはつねに進行中である。

 『われらの狂気を~』で語られるように、その出会いは「つねに進行中」であり、お気に入りの詩句を読みあげる行為には終わりがない。

I say it just
Begins to live
That day.

 最終行「その日」は、詩の言葉の誕生の日であると同時に、繰り返し歌われる詩との尽きることのない出会いの日々でもあると思う。こころに息づく言葉=詩は、わたしたちの人生をよりゆたかなものにしてくれる(あるいは深みのあるものにしてくれる)。詩は文学のなかでもマイナーなジャンルだけれど、わたしは詩が好きだな。

 翻訳ノート

 シンプルな詩なので、すぐに訳せると思って作業をはじめたところ、そうでもなかった…… (少ない言葉数で詩の言葉を立ち上げてゆく作業は意外にむつかしい)

 1行目 word 「言葉」は、冒頭で1回だけ使われている。既存の訳では、5行目を「ことばは生き始める」としたものもあって、いっけん詩の理解を助けているようにも思われるのだけれど、この使い方だと詩がひとまわり小さくなってしまうような印象を受けた。わたしの訳では、原詩と同じように「言葉」を冒頭の1回だけ使って仕上げた。

 2行目 said 、3行目 say の描き分けについては、(辞書経由ではなくて)直感に従って訳した(このふたつを「言う」の方向で訳すと、わたしの感覚としてしっくりこない)(3行目 say は「言う」とした)。

 2行目 Whenを「~とき」「~ときに」と訳した場合、最終行の「~日に」と同じトーンになる。わたしはこういうのがいささか気になるので、それを回避するために言葉をパラフレーズした。2行目を「~息絶えたと」とすることで、5行目「生きはじめるのだと」との対比も明確になってよいと思うのだけれど、どうだろう?

 日本語では細かな言葉の操作~ニュアンスの演出が出来る。原詩の行の配列を維持しつつ、そのあたりの機能を上手く使って詩全体が自然に流れるようにこころを配って仕上げてみた(上手くいったかな?)。

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