鞠二月二日堂

詩と芸術のブログ

ディキンソン 「大切な宝物を手にして――」 I held a Jewel in my fingers —

 海外の詩の翻訳シリーズ。

 エミリー・ディキンソン、第9回「大切な宝物を手にして――」 I held a Jewel in my fingers — (245番 1861年)日本語訳と解説(ディキンソンの目次と年譜はこちら)。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 ※ 『対訳 ディキンソン詩集』亀井俊介編(岩波文庫)、『ディキンスン詩集』新倉俊一訳・編(思潮社)を翻訳と解説の参考にしました。

日本語訳 大切な宝物を手にして――

原詩 I held a Jewel in my fingers —

I held a Jewel in my fingers —
And went to sleep —
The day was warm, and winds were prosy —
I said " 'Twill keep" —

I woke — and chid my honest fingers, 5
The Gem was gone —
And now, an Amethyst remembrance
Is all I own —

 ※ 原詩は版によってカンマやダッシュ、大文字、小文字の使い分けなどに違いがある場合があります。こちらでは『対訳 ディキンソン詩集』で使われているテキストThomas H. Johnson: The Poems of Emily Dickinson, 1955に合わせました。

解説 喪失の素描~魂の原風景

 この詩は、はじめて読んだときから妙にこころにひっかかるものがあった。今回、詩を翻訳する過程で、既存の理解~解釈とは異なる新たな視点の獲得があったので、そのあたりのことを語ってみたい。

 一般的な理解~標準的な解釈(?)ということで、亀井俊介の解説をひいておこう。

 誰にでもある子供の頃の体験をうたって、ディキンソンの作品にしては珍しく少女趣味が色濃く出ている。しかしただ甘美な追憶にふけるのではなく、センチメンタリズムに磨きをかけているところが、詩人のうでの冴えというべきだろう。

 「子供の頃の体験」「少女趣味」「甘美な追憶」「センチメンタリズム」と解説されれば、まあそうかなと思う。でも、実際に翻訳の作業をはじめてみると、これはちょっと違うんじゃないかと思うようになってきた。

 ここで、詩のつくりを確認しておくと、

第1連――宝物~宝石を手にして眠る。
第2連――目覚めると宝石は消えていた。いまはアメジストの記憶がすべて。

 となっていて、第2連の表現に気になるところ(よく分からないところ)があった。

 6行目 was gone 「失せていました」「消えていた」(既存の訳)は、具体的には眠っているあいだに宝石が手からこぼれ落ちた~手放したということだけれど、宝石の存在そのものが消えてなくなるわけではないのだから、宝石は毛布のなかや枕の下などにあるのでは、と思う。宝石を探す描写はないけれど、結局のところ宝石はどうなったのだろう?

 8行目(最終行) Is all I own 「(アメジストの記憶が)わたしにある全てです」はどうだろう。詩の内容を子供の頃のほほえましいエピソードとすると、その記憶が全てというのは(たしかにそうではあるけれど)、いささか大仰な表現という気がする。深刻なテーマであっても軽やかな表現を好むディキンソンからすると、彼女らしくないというか、この all のニュアンスをどのように考えればよいだろう? (ここがいちばんひっかかる)

 参考:ここでの「全て」は、残された記憶を強調すると同時に、現実に失われたもの(喪失)の強調にもなっているようです。

 このようにみてゆくと、第1連「子供の頃の体験」「少女趣味」→ 第2連「甘美な追憶」「センチメンタリズム」といふうな理解~解釈はいまひとつすっきりしないものが残る。さて、どうしたものか……

 詩では具体的な「もの」に象徴的な意味を託すことがよくある。「わたし」が手にしていたものは、詩の展開に合わせて Jewel → Gem → Amethyst と言い換えられていて、Amethyst 「アメジスト紫水晶)」について少し調べみた。

 語源のギリシャ語では「酒に酔わない」という意味がある(ギリシャ神話からの言い伝え)。古代エジプトでは護符として、キリスト教では司教石としてロザリオや指輪に用いられている(なるほど…)。

 とすると…… この詩の隠された主題はなにか信仰に関係したものだろうか? そのようなことを考えていたとき、この詩といくらか関係していると思われる別の詩のことを思い出した。

 959番(1865年)から冒頭部分(第1連)を引用しよう(『ディキンスン詩集』新倉俊一訳・編より)。

私はいつもなにかを失った気持ちがした
思い出す最初のことは
なにかわからないものを奪われた感じ
その頃はまだ幼いので そんな悲しみを負ったものが

 詩の語り手「私」は、そのような喪失の感覚を「王国(領地)」から追放された王子にたとえる(第2連)。「私」はいまも、「務めを怠った宮殿」(参考:本来の役割を十分に果たせない拠り所)を探し求めている(第3連)。詩は第4連(最終連)で天国のイメージを呈示しつつ、つぎのように終えられる。

だが疑いが指のように
ときどき私の額にふれる
もしかしたら天国の場所を
反対の側に見つけようとしているのではないかと

 こちらの作品は、どこか失楽園(満ち足りた住処からの追放)を想起させるものがある。「私」は幼い頃に「いつもなにかを失った気持ちがした」と語る。でも、なにを失ったのかは分からない。手放したくなかったものを奪われたという感覚、その喪失の悲しみが「私」を天国 (原詩:the Kingdom of Heaven)の探求へと駆り立てる。でもそれは容易ではなく、自分が正しい方向にむかっているのかも定かではない。

 ディキンソンとキリスト教の信仰については、いくらか複雑なものがある(詳細は年譜の方に少し書いています)。キリスト教の天国をそのまま受け入れることが出来れば(信仰することが出来れば)、自ら天国を求めなくてもいい。でも、ディキンソンは詩作を通じて天国のヴィジョンを見出そうとした。その原動力になったのは、詩で語られたような幼い頃に感じた喪失の感覚だったのかもしれない。

 245番と959番の詩で語られる「喪失」は同質(あるいは近縁)のものではないのか? 245番で歌われた喪失は、ディキンソンを詩作にむかわせた「魂の原風景」とでも呼ぶべきものだったのではないのか? 少女趣味を装って歌われた根源的な喪失の素描、そのように考えると6行目「消えていた」、8行目(最終行)「わたしの全てです」の表現もしっくりくる(わたしの好きなディキンソンがここにいる…)。

 皆さんはどのように思われますか?

 このような喪失については、つぎの「翻訳ノート」で、もう少し詳しく見てみます。

翻訳ノート

 解説で語った「根源的な喪失」のイメージを見つめつつ、切り詰められた表現にぴったりとくる日本語を探しながら訳していった(これが時間がかかった…)。

 1行目 Jewel に対応する日本語は「宝石、装身具」「貴重なひと(もの)、宝」など幅広い。 Jewel はその後、Gem 「宝石」「至宝、珠玉」(6行目)→ Amethyst 「アメジスト紫水晶」(7行目)と言い換えられる。 おおきな流れとしては抽象的な表現から具象的な表現へと展開されている。1行目は子供の「私」にとってのという方向で考えて「大切な宝物」と訳してみた(子供にとっての価値観からの訳)。

 3行目 winds were prosy は風についての描写だけれど prosy 「平凡な、退屈な、単調な」「散文的な」ということで「(風は)おだやかだった」としてみた。宝物(アメジスト)と共にあることの穏やかで満たされた日常の示唆といったところだろうか。

 4行目 'Twill keep('T=It)子供の「わたし」の心理をどのように反映させるかでニュアンスもかわってくる。子供らしい言葉使いということで「ずっといっしょ」としてみた。

 5行目 my honest fingers はどのように訳すのがよいだろう。1行目の fingersは「手」と訳した(「指」とすると日本語として不自然になる)。こちらも「手」でよいように思われますが…… hand ではなく fingers と表現されているところにディキンソンのこだわりがあるような気もする。表情ゆたかな指に注目するというのは、ディキンソンらしいと表現といえるかもしれない。こちらは「指」と訳してみた。

 ここでは、その指が honest と形容されている。honest 「正直な、実直な、信頼できる」くらいの意味だけけど、「正直な指」といわれても、よく分からない。「正直~信頼できる」であれば、宝石を手放さないのでは? と思う。亀井俊介の訳では「愚直な手を~」となっていて、「抜け目ない注意ができない指なのである」と解説されていた。つまり、ここでの正直さは、いくらかおバカな正直さということだろうか。

 当初は、そちらの方向から「純朴な~」と訳していたのだけれど、なんだかおさまりがわるい。数日考えて、それがおバカな正直さならな、叱ったりはしないのでは、と思うようになった。「思わず手が出た」という表現があるように、手(からだ)が意(こころ)に反して行動してしまうこともある。ここでの正直さは、そのようなことではないだろうか(わたしの推測)。

 成長と共に(本人も気がつかないうちに)失われてゆくものがある。指(手)はその正直さから、宝石~アメジストをやがて失われるべきものとして手放してしまう。そんなふうに考えてみてはどうだろう。そのまま「正直な指を~」と訳した。

 7行目 an Amethyst 「アメジスト紫水晶)」には、ここまで語ってきたことをふまえて補足の言葉を入れたいと思った(このあたり余計なこととは思いつつ、個人的な楽しみということで…)。

 思ったのはよいけれど、これがむつかしい(むむむ…)。アメジストのイメージは「司教石」に象徴されるように、深いところではキリスト教の世界観とつながるものがあるように思う。ディキンソンのお気に入りの言葉たちが思い浮かんだ。「美しさ」「永遠」「不滅」「天国」…… でもこれらの言葉を組み入れることは出来ない。これは、その後の言葉たちだと思うから。

 あれこれ考えること1週間(気長に考えるのが好きです)、こちらの記事を見直していたとき、ふと「信仰の光」という言葉を思いついた。これでよいような気がした。なぜ、これでよいのかを説明することは出来ませんが…… 「アメジスト」+「信仰の光」から、なにかを感じていただけたらうれしいです。

 皆さんは子供の頃、どんな宝物を手にしていましたか? その記憶はいまも鮮やかですか?

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