鞠二月二日堂

詩と芸術のブログ

ディキンソン 「太陽の意匠は」 The pattern of the sun

 海外の詩の翻訳シリーズ。

 エミリー・ディキンソン、第11回「太陽の意匠は」 The pattern of the sun (1550番)日本語訳と解説(ディキンソンの目次と年譜はこちら)。

 ※ 『ディキンスン詩集』新倉俊一訳・編(思潮社)を翻訳の参考にしました。

日本語訳 太陽の意匠は

原詩 The pattern of the sun

The pattern of the sun
Can fit but him alone
For sheen must have a Disk
To be a sun —

 ※ 原詩は版によってカンマやダッシュ、大文字、小文字の使い分けなどに違いがある場合があります。

解説 「わたし」と太陽の直接的な関係の鮮やかさ

 詩は、2行目に alone 「~だけ、~のみ」とあるように、太陽がまさに太陽であることの〈在り方〉が pattern 「図案、図形」の視点から歌われる。それは sheen 「輝き、光沢、つや」のある Disk 「円盤」ということですが……

 既存の訳(新倉俊一)は、

太陽のかたちは
それ自身しか適さない
きらめきが太陽であるためには
円形を必要とする

 というふうになっている。なるほど、このような訳だと分かりやすい(日常の感覚~常識から理解しやすい)。でも、わたしとしては、いまひとつしっくりこない(この作品をこのような、分かりやすさに落とし込んでもよいものだろうか?)。

 河合隼雄『神話と日本人の心』(岩波書店)から、太陽に関係した箇所を引用しよう。

 天空に輝く太陽を見たとき、どのような民族であれ、その不思議さに心を打たれたことであろう。そして、その重要さも感じたはずである。人間の特徴は、そのような体験を、自分なりに「納得」のゆくこととして言語[芸術]によって表現し、それを他人と共有しようとすることである。それによって、人と人のつながりができてくる。太陽を太陽という言葉によって共通に認識しているだけでは不十分なのである。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 そこに詩の作り手であるディキンソンのどのような「体験」や「納得」があったのだろう? なぜそれは Disk 「円盤/円形の表面」なのだろう? (太陽面を sun's disk と表現することから?)なぜその輝きは sheen なのだろう? (太陽を表現するのなら glow, shine などを使うのが一般的かなと思うけれど…)

 他者との「共有」ということでは、そのような役割を担った言語表現~物語のもっとも根源的なものは神話と呼ばれる。日本だと天照大神[あまてらすおおみかみ]の物語が有名ですね。神話のイメージは文学作品に組み込まれることもおおい。でも、この詩に神話の気配は感じられない。太陽は「円盤」であり(即物的な表現)、アポロンヘリオスも登場しない。かといって近代以降急速に発展した自然科学の眼差しがあるわけでもない(自然科学の視点では、太陽は球体になる)。

 そのようなことを考えていたとき、ふと太陽が描かれた絵画のイメージが思い浮かんだ(文学作品から芸術作品への連鎖…)。それって、このようなことではないのか?

クロード・モネ「印象、日の出」

 クロード・モネ「印象、日の出」 Impression, soleil levant 1872年

 モネ「印象、日の出」、皆さんもご存知ですよね。この絵に描かれた太陽に注目してほしい。日中の太陽とは違うやわらかな色彩で描かれている。この詩は、そのような日の出、あるいは日の入りの太陽を歌ったものではないのか?

 日中の太陽は眩しくて肉眼で直接見ること(注視すること)は出来ない(危険です!)。朝日や夕日であれば(条件がよければ)、肉眼で直接見ることが可能となる。それを Disk 「円盤」と表現されれば、ああ、なるほどと思う(モネの太陽も円盤のように描かれている)。その輝きはやわらかであり sheen 「輝き、光沢、つや」の表現もしっくりくる。

 モネなど印象派の画家たちは屋外での制作を好んだ。創作は神話や宗教、伝統に寄り添うのではなく、作家自身の「見る」という行為からはじめられる。直接の体験=生きた眼差しが作家を新たな表現へとむかわせた。この詩を対象を見るということからひもといてゆくと、地平線(あるいは水平線)近くの「見ることが出来る太陽」がモチーフに選ばれたことは必然のようにも思える。

 日中、眩しい光に姿をくらませていた太陽が、そのとき目に見える形となって現れる(夕日の場合)。そのような体験から、太陽の pattern 「図案、図形」という「語り口」が獲得されたのかもしれない。それを起点にして、太陽が太陽であることの固有性が端的に表現される。この作品の成り立ちをそのように考えてみてはどうだろう。

 既存の知識~教養ではなく、「わたし」と太陽の直接的な関係の鮮やかさが表現の衝動を呼び覚ます(詩の言葉を喚起する…)。あの日、わたしが見た海に沈む太陽は、とろけるように輝く朱色の円盤だった(皆さんが見た太陽はどのようでしたか?)。

翻訳ノート

 翻訳は直訳ふうの訳も試みたけれど、なにか理屈ぽい雰囲気が先行するようで、いまひとつしっくりこなかった。ことわざふうの表現(意訳)にしてみたところ、よい感じに思えたのでこちらの方向から訳を仕上げた。

 1行目 pattern 「型、様式/図案、柄、図形/原型、型紙」は、詩の内容から pattern = sheen + Disk と理解して、「図案、図形」の方向から「意匠」と訳した。

 3行目 sheen 解説で語った日の出、日の入りの太陽の輝きということから、わたしのイメージで「目映い艶」としてみた(太陽についてのオリジナルな描写が感じられる訳)。

 3行目 Disk は「円盤」と訳した。「円形」は線と面のどちらも含むので Disk のイメージが弱まってしまうように思う。「円盤」は具体的な表現を好むディキンソンらしい言葉の選択ではないだろうか。

 4行目 a sun、1行目 The から a にかわっていますが…… 太陽も他の星(北極星など)と同じ恒星なので、その視点が導入されて a sun と表現されているのかなと思う。深読みすれば、太陽には太陽に固有の存在様式があり、そうであればこそ恒星=普遍的な存在を獲得するというようなことかもしれない(固有性から普遍性への展開)(このあたり参考ということで…)。

 3~4行目は、そのまま訳すと「太陽」を4行目(最終行)に置くことがむつかしい。歌われている内容を維持しつつ言葉を再構成して、キメの「太陽」を4行目に置く訳(意訳)とした。

 ここでは、モネの描いた太陽をひいたけれど、ゴッホ「種まく人」の黄金色に輝く太陽もすばらしい(好みです)。太陽に関係した図像をあれこれ眺めていると不思議とこころが元気になってくる(どうしてだろうね?)。

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