エミリー・ディキンソン 詩と時代~年譜
エミリー・ディキンソン Emily Dickinson (1830-1886)
アメリカ合衆国の詩人。生前に発表(印刷)された詩は匿名での10篇だけだったそうです。彼女の死後、その詩はおおくのひとに支持されてゆき、いまではホイットマンとならんでアメリカを代表する詩人のひとりとして認められています。
詩 目次
ディキンソンの詩の日本語訳(原詩、解説、翻訳ノート付き)
- 水は渇きに教わる (135番) 1859【13】
- 大切な宝物を手にして―― (245番) 1861【 9】
- 「希望」は羽をまとった姿で―― (254番) 1861【10】
- わたしは誰でもないひと! あなた 誰? (288番) 1861【 2】
- これが詩人というひと――それは (448番) 1862【14】
- わたしは〈美しさ〉のために死んだ――けれど (449番) 1862【 1】
- あなたが秋に訪れるのなら (511番) 1862【15】
- 憑かれるれるのは――部屋でなくてよい―― (670番) 1862【12】
- わたしが死へと立ち止まれなかったので―― (712番) 1863【 6】
- わたしの人生は――弾の込められた銃で―― (754番) 1863【18】
- 詩人はランプに火を灯すだけ―― (883番) 1864【 7】
- お別れはしないでおきましょう (996番) 1865【 8】
- わたしは荒野を見たことがない―― (1052番) 1865【19】
- 鳥たちの夏よりさらに晩く (1068番) 1866【 3】
- 真実をすべて告げよ でもそれを斜めから告げよ――(1129番) 1868【16】
- 百年の後には (1147番) 1869【 5】
- 言葉は死んだ (1212番) 1872【 4】
- 太陽の意匠は (1550番) ****【11】
- わたしの火山に草が育つ (1677番) ****【17】
※ 【 】は、記事を執筆した順です。第1回から順番にみてゆきたい方は「わたしは〈美しさ〉のために死んだ――けれど」 I died for Beauty — but was scarce(こちら)からどうぞ。
参考:https://en.wikisource.org/wiki/Author:Emily_Dickinson
年譜 1830-1886
※ わたしの興味の範囲でつくったディキンソンの年譜です(わたしの興味が反映された内容になっています)。
※ 『対訳 ディキンソン詩集』亀井俊介編(岩波文庫)、『ディキンスン詩集』新倉俊一訳編(思潮社)を参考にしました(2冊の書籍で内容の詳細が異なるところもあり、こちらの年譜にも不正確なところがあるかも知れません)。
1830 12月10日、マサチューセッツ州アマストに生まれる。アマストはボストンから120キロほど離れた農村のなかの町(人口二千数百人ほどのピューリタニズムの伝統が色濃く残る田舎町)。
父エドワードは弁護士で、州議会や連邦下院の議員も務めた(いわゆる名士)。人柄は家庭的でやさしく、威厳を重んじる保守的な人物だったようです。母ノークロスは、病気がちで家庭では影が薄かったということです。祖父サムエルはアマスト大学(正統なキリスト教系の大学)やアマスト・アカデミー(ハイスクール)の創立におおきく貢献した。
1840(10歳) 9月、妹ラヴィニアとともにアマスト・アカデミーに入学。
1847(17歳) 8月、アマスト・アカデミーを卒業。9月、マウント・ホリヨーク大学(アメリカで最初の女子大学)に入学。寮生活を経験する(快活でウィットにとむディキンソンは、仲間たちの人気者だった)。
1848(18歳) 8月、マウント・ホリヨーク大学(女子専門学校)を退学。以降、自宅で病弱な母にかわって家事などをする。退学については、亀井俊介が次のように解説(推測)している。
彼女が自分というものの意識を強めるにつれて、困難な問題が生じてきた。信仰復興運動は人々に地獄の恐ろしさを説くと同時に、信仰告白を要求した。(……)
だが、エミリにはそれができなかった。彼女を除く家族の者はぜんぶ信仰告白をした。マウント・ホリヨークでも、学校側の圧力により、友人たちは次々と信仰告白を行った。(……)彼女が1年でマウント・ホリヨーク女子専門学校を退学したのは、このことと関係があるのかもしれない。
ということです。いまでは考えられないようなことですが…… (それが「時代」ということなのだろう…)
1858(28歳) この頃より、自作の詩の清書をはじめる。
1861(31歳) 南北戦争が勃発。
1862(32歳) 4月15日、批評家のトマス・ウェントワース・ヒギンソン Thomas Wentworth Higginson に自作の詩を同封して手紙を送る。ディキンソンの詩は当時の常識的な詩の主題(内容)、表現形式とは異なっていたため(風変わりで独創的だったため)、ヒギンソンからの積極的な評価は得られなかった。
3通目に出した手紙でディキンソンは「出版することは」「縁なきこと」と綴り、この時点で詩集を出版することを半ばあきらめてしまった感がある(あるいは、自らの詩が時代に受け入れられる時を静かに待とうという姿勢にかわったというべきか…)。
1874(44歳) 父エドワード死去。
1882(52歳) 母ノークロス死去。
1886(55歳) 5月13日、死去。葬儀では、ディキンソンが愛誦していたブロンテの詩「わたしの魂は恐れを知らない」が朗読された。
妹ラヴィニアが整理ダンスの引出から、清書されてグループごとにまとめられた詩稿を発見する。
1890 『エミリー・ディキンソン詩集』第1集が出版される(詩集はオリジナルそのままではなく、当時の読者に受け入れられやすいように手が入れられていた)。世間の評価(評判)は「2年で11版を重ねた」ということで、おおむねよかったみたいです(第1集の好評を受けて、1891年に第2集、1896年に第3集が出版される)。
1910年代 モダニズムの詩運動のなかで詩壇から注目されるようになる。
ロマン派以降、当時の詩が引きずっていた過剰であいまいな感傷性や観念の抽象的呈示といった風潮への反抗に根ざすこの運動[モダニズムの詩運動]は、それが目標としていた表現上の手本をディキンスン詩の知的な抒情と具象性豊かな書法に見いだしたのである。
※ 野田寿の解説(朝日新聞)
1930年代 アメリカの文学史に取り上げられるようになる(ディキンソンが詩を通して見つめていた世界に時代が追いついてきた…)。
1955 トマス・H・ジョンソン Thomas H. Johnson が丁寧な校正をおこない、原文をそのまま再現することにつとめた『エミリー・ディキンソン全詩集』が出版される(ジョンソン版詩集では、1775篇の詩が制作された順に並べられた)。
1960年代 日本でも人気が高まり、おおくの翻訳が出版される(ディキンソンの詩は戦前から戦後にかけていくらか紹介されていたようですが、そのときはあまり話題にならなかったようです)。
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