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鞠二月二日堂

詩と芸術のブログ

T.S.エリオット 「荒地」 死者の埋葬 The Burial of the Dead 《2》 翻訳ノート

 T.S.エリオット『荒地』死者の埋葬 《1》 日本語訳 解説 からのつづき(『荒地』 日本語訳だけをまとめて読みたい方はこちら)。

翻訳ノート

 死者(失われたものたち)を巡るイメージは鮮明で迷うことはなかった。

1~18行 春~冬~夏のパート

 春のパート、冒頭の4行は「残酷」を巡る「私」の語りとして展開される。

 1行目、4月がいちばん「残酷」な月であることが宣言される。
 2~4行目、「私」にとっての「残酷」の内容が語られる。

 という組み立てになっている。一般の感覚では(それ単独では)、残酷とは直接結びつかない内容が「私」にとっては「残酷に感じられる」というのがポイントだろうか。

 参考:この感覚はいくらか病的なものだと思う。似たような経験をされたことのある方なら実感として分かるだろうけど(わたしにはよく分かる)、そうでなければこの感覚は分かりにくいものかもしれない。ここでの「残酷」は詩的な装飾などではなく、「私」の切実な訴えであり、その「精神的苦痛」はけっして小さなものではないことが想像される(わたしのささやかな体験からの考察)。

 岩崎宗治訳、西脇順三郎訳では、2行目 dead land が「死んだ土」となっている。そうなの……? 土が死んでいれば、いくら春の雨が〈水〉を供給しても〈根〉が活発になることはないと思うけれど(根が活動しなければ、当然植物=ライラックも育たないだろう…)。land は「土」(マテリアル)ではなく「場所」(区域)の方向で訳すのがよいのではないか。

 この箇所は、詩の結末の「庭に植えられた死体」に関係している。ひとのこころには dead land のような、うかつに触れたり、掘りおこしたりしてはいけない場所がある。そこには、死者(失われたものたち)が埋まっている。春の雨(水)は地中=意識下へと滲み込んでゆき、〈根〉=「こころの深部」の活動を活発にさせる。あの頃の記憶が(思い出したくもないのに)ライラックの情景とひとつになって、鮮やかによみがえってくる(意識下に沈んでいた、あるいは抑圧されていた記憶=イメージの顕在化とでもいえばよいだろうか)。失われたものがライラックの花のように美しく魅力的であればあるほど、それはこころをつらくさせるだろう、四月は残酷な月だよ…… そういうことではないだろうか。

 2~4行は、そのまま訳すとあっさりしすぎて、5行目以降とつながりがいまひとつに感じられた。「残酷」を想起する方向から、原詩にいくらか言葉を盛りつつ訳した。

 冬のパート、5行目 Winter kept us warm のところは、「冬はあたたかに装ってくれた」といくらか洒落てみた(いかが?)。

 6行目 feeding をどのようなイメージで訳すのがよいだろう。既存の訳をみてみると「乾いた/球根で、小さな生命を養ってくれた」(岩崎宗治訳)、「ひからびた球根で短い生命を養い」(西脇順三郎訳)、となっているけれど……

 7行目 dried 「乾いた」に注目しよう。これは4行目の spring rain 「春の雨」(水)に呼応するイメージになっている(と思われる)。球根(tuber:正確にはジャガイモなどの塊茎)を育てたことのある方なら分かると思うけれど、成長の終わった球根は堀り上げて乾燥した状態で保存する。乾燥させているのでもちろん〈根〉は出ない。

 feeding を「養う」の方向で訳すと、冬のあいだは乾燥した球根(干からびた球根)を食べて(貧しい)生活をしていた、というようなニュアンスになる(これはちょっと違わないだろうか…)。乾燥して〈根〉を出さない球根が little life 「ささやかな生」を「私」に与えたと理解するのが、1~6行目までの流れから考えて妥当なように思う。「球根は乾いていて ささやかな人生を享受した」と訳してみた(直訳ではなく表現をひと工夫して訳した)。

 夏のパート、8行目 Starnbergersee 「シュタルンベルク湖」はドイツ・バイエルン州の南部に位置する大きな湖(リゾート地として有名、ルートヴィヒ2世が水死体で発見された)。10行目 Hofgarten 「ホーフガルテン」はドイツ・ミュンヘンにあるバロック式庭園(市民に人気の憩いの場所だそうです)。

19~30行 「人間を越えた存在」の語りのパート

 20行目 Son of man 「人間の子よ」は、エリオットの原注によると出典は「エゼキエル書」第2章 第1節とのこと。「人間の子よ」と人間を上から目線で語っているので、ここでの語り手は「人間を越えた存在」なのだろう。

 22行目 heap of broken images (直訳では)「壊れたイメージの積み重ね」をどのように訳すのがよいだろう。岩崎宗治訳では、この箇所を「エゼキエル書」の「偶像崇拝に対する神の裁きを述べた箇所」と関連づけて「壊れた石像[イメージ]の山」となっている。image には「聖像、偶像」の意味があるので「石像」(偶像)といわれれば、まあそうかもしれない。岩崎宗治の解説を引用しよう。

 「壊れた石像の山」はイギリス人にとっては宗教改革時代の聖像破壊を思わせるイメージであるが、広くヨーロッパ文明の歴史を考えると、北アフリカ古代ローマの都市の遺跡、カルタゴの遺跡、さらには第一次世界大戦によるヨーロッパの破壊の跡を連想させる。

 なるほど heap of broken images から、そのような意味=イメージをたどることも出来ると思う。でもそれは(あくまでも)「裏の意味」ではないだろうか。これを訳として「表」に持ってくることは、全体の流れ=展開から考えて違和感がある(わたしの印象)。

 第1連(1~18行)は「失われた恋人」を巡って展開されている(わたしの理解)。それが第2連(19~30行)で「きみにわかるのは/壊れた石像[イメージ]の山(それは宗教改革時代の聖像破壊であり、古代の遺跡であり、第一次世界大戦によるヨーロッパの破壊の跡である)。」(岩崎宗治訳)と展開したとすると、では第1連はなんだったの? ということになりはしないか(第1連は聖像破壊も、古代の遺跡も、ヨーロッパの破壊の跡も、全く関係がない)。

 broken images は、解説で語ったように(神様の)「完全なイメージ」~「調和の世界」に対する「壊れたイメージ」(不完全なイメージ)~「荒廃した世界」=「現代」の方向で理解するのがよいのではないか。broken images は「結果」ではなく「原因」なのだと思う。わたしたちは「不完全なイメージ」しか知ることが出来ないので、その結果として「太陽が容赦なく輝く乾いた荒地」しか居場所がなくなってしまったというふうに理解すると、それぞれの行がなめらかにつながってゆくように思う。「(君が見知っているのは)壊れた不完全な〈像〉の集積にすぎない」とした。

31~34行 『トリスタンとイゾルデ』からの引用のパート

 「さわやかに風が吹き抜けてゆく~ いまどこにいますか?」(31~34行目)は、エリオットの原注によるとリヒャルト・ワーグナートリスタンとイゾルデ』若い水夫の歌からの引用。わたしの理解(解釈)は解説で語ったとおり。

35~42行 「ヒヤシンス嬢」のパート

 ヒヤシンスを巡るイメージは(花つながりで)冒頭のライラックからの展開と考えることが出来る(花のイメージに具体的な女性の姿が与えられたパート)。どちらも春に花を咲かす植物だけれど、ヒヤシンスは球根であり、またギリシャ神話ともつながる(岩崎宗治は、ギリシャ神話「ヒュアキントスの物語」から「植物神崇拝儀礼における再生の象徴」と解説している)。

 42行目 Od' und leer das Meer は、第3連(31~34行)にひきつづき『トリスタンとイゾルデ』からの引用。ここはどのように訳すのがよいかいまひとつ分からなかった(ドイツ語がよくわからない…)。わたしの気分で「鈍色の空虚な海よ」とした。

43~59行 タロット占いのパート

 マダム・ソソストリスがタロットカードで「私」を占う。カードの名前は、一般のタロットカードで使われる名前に合わせた。実際の絵柄を見た方が分かりやすいと思うので、参考資料として「ライダー・ウェイト版タロットカード」(英国の有名なタロットカード)から「棒の3」「運命の輪」「吊し人」を載せておきますね。

ライダー・ウェイト版タロットカード「棒の3」「運命の輪」「吊り人」

 ライダー・ウェイト版タロットカードの図。

 51行目 man with three staves は「棒の3」のことだと思われる。man with とあるので「三本の棒[ステイブ]と男」とした。岩崎宗治訳は「三つ叉の鉾もつ男」となっていて、これはポセイドンが持っている三叉槍(トリアイナ)を連想させる。あるいはこちらの方向で訳すのが正解なのだろうか? (解説ではタロットカードに「三つ叉の鉾もつ男」の札があるとされているけれど、わたしは見たことがない)。

 参考:エリオットの原注では、タロットカードには詳しくないと前置きして、Three Staves 「棒の3」を Fisher King 「漁夫王」に結びつけている。これは、ライダー・ウェイト版の「棒の3」の背景に海が描かれていることと関係しているように思われる(わたしの推測)。

 55行目 Hanged Man は「吊し人」とした(「吊された男」とも呼ばれるカードです)。岩崎宗治訳では「首吊り男」となっている。タロットカードの絵柄は足を吊られた男なので(絞首刑にされているわけではないので)、この訳にはちょっと違和感がある(解説では正く説明されているのにどうして「首吊り男」なのだろう? 原注でエリオットがこのカードのことを Hanged God 「縊[くび]られた神」と関連づけていることからの訳なのかもしれない)。

 47行目「溺れ死んだフェニキア人の水夫」、49行目「ベラドンナ」、52行目「片眼の商人」は、エリオットによって創作されたカード(一般のカードにはありません)。「溺れ死んだフェニキア人の水夫」は第4部「水死」に、「(片眼の)商人」は第3部「火の教え」にそのイメージが出てくる。ベラドンナはイタリア語で「美しい女性」を意味する言葉。植物のベラドンナ(オオカミナスビ)には猛毒があり、その果実を女性が瞳孔を広げるための点眼薬として使っていたこともあるという。

 57行目 Thank you 「ありがとう」はマダム・ソソストリスの台詞。彼女は鑑定が終わると「ありがとう」と言って客から鑑定料を頂いていたそうです(岩崎宗治の解説)。

60~76行 空想の都市のパート

 空想の都市としてのロンドンが描かれる。原詩の言葉のひとつひとつにはあまりこだわることなく、語りの雰囲気を大切にして訳してみた。

 63行目「〈死〉がなしたことの~」、64行目「彼らは ときおり短く溜め息を~」は、エリオットの原注によるとダンテ『神曲』地獄編からの引用。この場面のわたしの理解(解釈)は解説で語ったとおり。

 69行目 Stetson 「ステットソン」については、いつも sombrero-stetson 帽をかぶっていたエズラ・パウンドを指すとも言われていて、エリオット自身は、ごく普通のボウラー・ハット(山高帽)をかぶった銀行員をイメージしていたと語っていたそうです(岩崎宗治の解説)。

 70行目 Mylae 「ミュラエ」はシチリア島北岸の港。「ミュラエの海戦」は、紀元前260年のポエニ戦争でローマが新型の軍艦を使ってカルタゴ海軍に勝利した戦い。

 74行目「犬を近づけるんじゃないぞ 人にとって友達でもな」は、エリオットの原注によるとジョン・ウェブスター『白い悪魔』第5幕4場からの引用。岩崎宗治の解説では、次のように語られている。

 歌詞のなかに「狼は寄せつけないで、あれは人間の敵、/爪で彼らを掘りおこしてしまうから」という句があるが、エリオットはその中の「狼」を「犬」に、「敵」を「味方」に変えて引用している。

 興味深い…… 人間の敵が死者を掘りおこすというのなら、分かりやすい。でも「死者の埋葬」では、死者を掘りおこす行為(死者の安らかな眠りを損なう行為)が人間の味方(friend 「友達、仲間」)によっておこなわれる危険があるという。

 これはとても怖いイメージだと思う。戦争の死者を埋葬する行為、死者への鎮魂や平和の願いが、同じ人間の側から壊されてゆく…… 犬の爪で掘りおこされる(戦争の)死者のイメージは、第二次世界大戦の予言のようでもある。

まとめ

 出来ればやりたい(やらないかもしれません…)。

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