鞠二月二日堂

詩と芸術のブログ

ディキンソン 「わたしは荒野を見たことがない――」 I never saw a Moor —

 海外の詩の翻訳シリーズ。

 エミリー・ディキンソン、第19回「わたしは荒野を見たことがない――」 I never saw a Moor —(1052番 1865年)日本語訳と解説(ディキンソンの目次と年譜はこちら)。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 ※ 『対訳 ディキンソン詩集』亀井俊介編(岩波文庫)、『ディキンスン詩集』新倉俊一訳・編(思潮社)を翻訳と解説の参考にしました。

日本語訳 わたしは荒野を見たことがない――

原詩 I never saw a Moor —

I never saw a Moor —
I never saw the Sea —
Yet know I how the Heather looks
And what a Billow be.

I never spoke with God, 5
Nor visited in Heaven —
Yet certain am I of the spot
As if the Checks were given —

 ※ 原詩は版によってカンマやダッシュ、大文字、小文字の使い分けなどに違いがある場合があります。こちらでは『対訳 ディキンソン詩集』で使われているテキストThomas H. Johnson: The Poems of Emily Dickinson, 1955に合わせました。

解説 さまざまな存在のリアリティ

 「わたし」は実際に見たことのないもの、ヒースの丘や大波がどのように見えるかを知っていると歌う(第1連)。言葉そのままに理解すると奇妙なことのようにも思われる(どういうことだろうね?)。これは対象を直接見ること~視覚からの情報ではなくて、活字や伝聞などの言葉の情報によってヒースの丘や大波の存在のリアリティが自身のなかにかたちづくらたということではないだろうか(わたしの理解)。そのとき、わたしのなかで目にしたことのないヒースの丘のリアリティは現実に訪れたヒースの丘と等価になる。

 詩は実在する存在~ヒースの丘、大波から、想像上の存在~神さま、天国へと展開される。実際に訪れたことがなくてもヒースの丘や大波を知っているように、天国の存在を確信していると「わたし」は歌う。実在する存在も想像上の存在も、知ること、在ることのリアリティにはかわりがなく等しい。ちょっと不思議なことのようにも思われるけれど、ひとのこころはそのようにつくられているのだろう。

翻訳ノート

 表現の勢いを大切にしつつ、こなれた日本語をこころがけて訳した。

1~4行 第1連

 3行目 Heather 「ヘザー(学名:カルーナ・ブルガリス)、ヨーロッパから南西アジアにかけて分布するツツジ科の常緑小低木、エリカに近縁で花は桃紫色」亀井俊介の解説によると、エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」の舞台となったヨークシャー地方のヒースの丘が発想のもとになったのかもしれない、ということです。夏から初秋にかけて紫色の花が荒野をおおいつくすヒースの丘(高原)はとても美しく、大勢の観光客やブロンテのファンが訪れるそうです。日本ではheath「ヒース」という呼び名がよく使われることから「ヒースの丘」と訳した。

5~8行 第2連

 現実の領域から信仰の領域へと展開される。

 8行目 Checks 解釈にはいろいろあるそうです。亀井俊介訳「点検(をすませたみたいに)」、安藤一郎訳「合札[チッキ](を与えられたかのように)」、そのときディキンソンはどのようなイメージで Checks と綴ったのだろうね?

 7行目に certain とあり、「わたし」にとっての天国の存在は曖昧さのない確信に満ちた表現になっている。これまでみてきたディキンソンの詩の組み立て方から推測すると、つぎの行は具体的なモノに展開されることがおおいかなという気がする(観念から具象のパターン)。ということで「引換券[チッキ]を手にしているみたいに」としてみた。

 チッキ:① 鉄道で旅客から手荷物を預かって輸送するときの引換券。手荷物預り証。② 旅客が託送する手荷物。

 参考:「点検」の方向で考えると「下見をすませたみたいに」と訳すのも余韻を感じられる最終行で魅力がある。

ご案内

ディキンソン おもな日本語訳

 

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