リルケ 「オルフェウスへのソネット」 Die Sonette an Orpheus
海外の詩の翻訳シリーズ。
ライナー・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke 『オルフェウスへのソネット』(オルフォイスに寄せるソネット) Die Sonette an Orpheus(1922) 日本語訳(第1部 I~IV、第2部 I, III, XII)。
はじめに
『オルフェウスへのソネット』を翻訳する作業はスリリングな体験だった。そのときリルケに聞こえていた〈オルフェウスの歌〉を、わたしたちもまた聞いてみたい。リルケが〈もの〉に託して歌ったものを、再び〈こころ〉の側から眺めてみたい。そこに何が見えてくるだろう……
静謐なエナジーを湛えた『オルフェウスへのソネット』は、わたしたちのささやかな〈生〉を、こころの深部から明るく励ましてくれる。
第1部 I II III IV V VI
第2部 I III XII
※ わたしの訳は原詩(ソネット14行)に、おおくのパラフレーズする行を差し挟んでいます。ドイツ語からの正確な訳ではなく、詩全体のイメージ、意図、物語が明確になる方向からの「積極的な意訳」の試みです。
※ 詩の主題が分かりやすいように、それぞれの詩に標題をつけました。原詩に標題はついていません。
※ 『リルケ詩集』高安国世訳(岩波文庫)、『リルケ詩集』富士川英郎訳(新潮文庫)を翻訳の参考にしました。
※ 訳詩の作業はこつこつと継続中です。月単位、年単位でおつき合いいただけたらと思います。
日本語訳 オルフェウスに寄せるソネット 第1部
I (オルフェウスとの出会い)
眼差しが樹を昇ってゆく
青空を遙かに こころが越えてゆくとき
ぼくはオルフェウスの歌声を聴いた
ああ ぼくには聴こえたんだ!
聴覚=内耳の小部屋で枝を伸ばし葉を茂らせ
限りなく成長してゆく巨木よ!
ありあまるこころの静けさが開始の合図だった
新たな世界に招かれてゆく
ぼくの野生は澄んだ瞳をしていた
平原の獣ではなく 薄暗い密林からの使者だった
ひとつに融けあっていた こころの深部から
ぼくは ぼくの野生をおおらかに解き放とう
けっして静けさへの怖れからではなく
オルフェウスとの運命的な邂逅だった
ぼくは聴いていた
野生は言葉を持たない漆黒の純粋な唸りだ
青空に響きわたる原始のとめどない咆哮だ
それでも言葉なきこころの波動は
そのときのぼくの胸には なにか小さく物足りなく思われた
ぼくはオルフェウスの歌声を知っていた
ぼくは求めた でも ぼくはその術を知らなかった
夢見る困難な希望だった
あふれる思いは仮設のテントにたどり着くこともなく
言葉の戸口で棒立ちになって ふるえている門柱のようだった
ぼくがついに歌う術を見つけられなかったとき
オルフェウスは ぼくの聴覚に野生のための場所を与えてくれた
天に歌う壮麗な神殿だった
求めるな ただ歌え
オルフェウスからのメッセージだった
- 原詩 解説 翻訳メモ (I-I 予定)
II (眠る少女)
それは ほとんど少女と呼んでよかった
彼女はオルフェウスの歌と竪琴の妙なる調べに導かれて
人生の幸運な贈り物として ぼくのなかに現れた
彼女は春のヴェールを透かして 明るく輝いて見えた
彼女は軽やかに ぼくの聴覚=内耳にベッドをしつらえた
ぼくのなかで 彼女はすやすやと眠った
すると魔法のように すべてが彼女の眠りになった
ぼくがこれまで称えてきた お気に入りの木々たち
形あるものを手で触れているかのように知覚すること
広大な牧草地を五感を研ぎすまして享受すること
ぼくにとっての不思議と驚きが そこにあった
彼女は世界を眠った
歌とオルフェウスの純粋な結晶のような眠りだった
摩滅することも ほどけることもない眠りの世界があった
ぼくたちはいつ目覚めればいい?
彼女の寝顔を見てごらん
眠りから生まれた世界そのままに彼女は眠りつづけた
彼女の死はどこにある?
深い眠りが死=終焉に歩み寄ってゆくものなら
彼女のやわらかな眠りは永遠へと連なるものらしい
ああ オルフェウス
あなたの歌声のなかで永遠をどれほど思い描けるだろうか?
やがて彼女は こころの奥深くへと消えてしまうのだろうか?
ぼくはもう若くない でも彼女は……
まさに少女のよう……
- 原詩 解説 翻訳メモ (I-II 予定)
III (歌と存在)
神様だったら出来るだろう
だとしたら ぼくに教えてほしい
ぼくたち人間は ささやかな竪琴の音色に耳をすまし
天上で奏でられる旋律のように人生を歩んでゆけるだろうか?
こころは互いに相反するものへと別れてゆくものだから
手にした幸せを見つめれば それを失う哀しみに怯えている
ふたつのこころが交わるところに ぼくたちは立っている
そこに光り輝くアポロ(太陽)の神殿は建っていない
あなたの歌は ぼくに教えてくれた
それは誰もが夢見る人並みの願望ではなくて
人生の到達すべき姿を伝え聞かせてくれるものでもない
歌は存在である 存在は歌である
神様ならきっと容易いことだろう
でも ぼくたちは いつ存在するのだろう?
そのとき神様は……
ぼくたちの存在が
遙かな大地や満天の星空のようだとしたら?
草原に寝転がり 夏の星座を眺めている
若者よ 世界にむけて差し出された愛が きみの喉をひらき
そこから声=詩があふれ出たとしても
それは ほんとうの歌とは別のことだと知っておいてほしい
ふるい歌声は忘れてしまおう すへでは儚く消えてゆく
ほんとうの歌は息のようで 目的もなく探すこともしない
こころが静かに息をしている 世界が呼吸している
神様の息吹を思い描いてごらん
そんな風のなかに ぼくたちは生きている
- 原詩 解説 翻訳メモ (I-III 予定)
IV (恋人たち)
ああ 優しい人たち
ときには西風の春を呼ぶ息吹のなかへ踏みだそう
風は きみたちの右の頬をなぞり 純潔となる
風は きみたちの左の頬をなぞり 愛欲となる
ふたつの風は きみたちの後ろで渦を巻くだろう
愛が再びそれを結び合わせるだろう
ああ 清らかな人たち ああ 健やかな人たち
いまここで愛することがはじまる 歩んでゆこう
こころが求めるものがある からだが求めるものがある
キューピットの弓の矢 その矢の的は……
きみたちの笑顔は涙に濡れて永遠のように輝いている
苦しむことを怖れてはいけないよ
愛の重荷を地上の存在の重みのように感じてごらん
ゆるぎない山々の重みのように 愛がある
おおらかな大海の重みのように 愛がある
子供の頃に苗木だった木々たちを見てごらん
その存在は いまのきみたちより遙かに大きく重い
それでも 風は吹き抜けてゆく……
それでも ひとは愛の空間を知っている……
- 原詩 解説 翻訳メモ (I-IV 予定)
V (薔薇とオルフェウス)
石碑を建てることはやめておこう
不変のシンボルではなくて 四季に生きている薔薇を植えよう
薔薇は毎年オルフェウスを慕い ゆたかに花を咲かせるだろう
なぜなら 咲き誇る薔薇の花がオルフェウスなのだから
森羅万象のひとつひとつがオルフェウスの化身なのさ
薔薇 罌粟 雛菊…… 花の名前をいくつ言えるだろう?
名前を告げなくてもオルフェウスは歌を届けてくれる
オルフェウスは訪れ 去ってゆく 花は咲き 花は散る
ときおり散った花びらが噴水のなかに落ちることもあるだろう
すると花びらは数日 その美しい姿を楽しませてくれる
それだけで もう十分ではないだろうか?
ああ オルフェウスが去ってゆく!
消えてゆくことが不安の感覚を呼び覚ますものだとしても
歌はそのあとにつづく静寂のためにあることを知ろう
いつまでも持続する音を音楽と呼べるかい
そのとき言葉は静けさへのなかで存在を越えてゆくんだ
ぼくたちの眼差しは彼方を見つめている
なにも連れ去ることなくオルフェウスは去っていった
竪琴の弦をつま弾く指先が沈黙へとすり抜けていった
美しい竪琴の音色も彼を引き止めておくとことは出来ない
オルフェウスは沈黙に漂い 軽やかに境界を越えてゆく
- 原詩 解説 翻訳メモ (I-V 予定)
VI (ふたつの世界)
彼もぼくたちと同じ地上に暮らしている?
彼はふたつの世界に届く おおきな腕をひろげて生きている
その本質は ぼくたち人間のそれとは別のものだよ
こんな話を知っているかい?
柳の根をよく知るものは 柳の枝を上手くたわめる
眠りにつくときは つぎのことに気をつけてほしい
食卓の上にパンを残さないこと ミルクを残さないこと
きみの家に死者を呼び込みたくはないだろう?
でも彼はちがう 彼には生粋の奇術師を思わせるところがある
深遠な瞼の下に秘密の仕掛けが隠されているんだ
死者のための世界が そこにひろがっている
それはこんなふうに機能する
瞼の下の彼岸は瞳の此岸にむけて死者の面影をたえず投影する
だから見るものすべてが死者=永遠と共に認識される
カラクサケマン(唐草華鬘)やウンコウ(芸香)の薬効のように
そこでは此岸と彼岸がひとつに融けあう その神秘の関係は
疑いようのない真実なんだ
彼はそんな世界に暮らしている
生と死の妙なる二重写しの眼差しを彼は持っている
そして彼岸のイメージは けっして損なわれることがない
埋葬された少女は当時の姿のまま 永遠を生きている
地下の仄暗い墓から 地上の明るい部屋から
指輪を 髪留めを 水差しを その永遠を 称えて歌う
- 原詩 解説 翻訳メモ (I-VI 予定)
日本語訳 オルフェウスに寄せるソネット 第2部
I (詩が生まれる空間)
ぼくは世界を呼吸する 見えない詩よ!
呼吸=息が ぼくと世界をひとつに結び合わせる
創作の空間につつまれている そこでは存在と言葉は
互いに等価であり 純粋に交換可能なんだ
絶妙なバランスで釣り合っている天秤を思い描いてごらん
世界の存在の重みとぼくの言葉の重みが正確に量られて
釣り合いながら心地よく揺れている つまりリズムだね
存在と言葉の協調作用が ぼくを捉えて誘う
はじめに小さな波が ひとつ生まれる
波は二つめの波を呼びこみ 三つめの波へと連なってゆく
波は不思議な生命のようだ 波の集まりは ぼくに海を見せてくれる
それは すべての海のなかでもっとも切り詰められた海
そこに無駄なものはいっさいない 倹約と簡素の精神だね
詩作は無数の波から最良のものを切り詰めてゆく作業なんだ
そのようにして詩の空間は獲得されてゆく
既視感にも似た感覚だった ぼくは知っていた
イメージはすでに ぼくのなかに存在していた
いくつもの空間が こころの奥で見つけられるのを待っていた
空間を縦横に風が吹き抜けてゆく こころがふるえた
それは ぼくの子供たちみたいなものだ
やあ また会ったね ぼくを覚えているかい?
この空気なんだな いまもかわることのない ぼくの場所だ
ありありと感じることが出来る 手に触れることが出来る
きみはかつてのなめらかな樹皮 分かるんだ
丸みをおびている 葉 それは ぼくの言葉たち
- 原詩 解説 翻訳メモ (II-I 予定)
III (鏡の不思議)
鏡は不思議なものだ
ほんとうの姿を書き記したものは まだいないという
鏡のむこうには もうひとつのリアルな世界があるように見える
でもそれは虚像で鏡のむこうは実在しない世界なんだ つまり
鏡は無数のホール=〈虚〉が寄り集まった篩[ふるい]のようで
時の狭間から生まれる〈空〉の集合体のようでもある
鏡を見つめつづけた
からっぽの空間から虚空を汲んでもっと空にするように
やがて日が暮れると はるかな夜の森が浮かび上がってくる
鹿の角を思わせる十六の明かりの灯った燭台がゆらゆらと
ひとが立ち入ることを禁じられた世界を通っていった
神聖な数字「十六」だけが入ることを許された
ときに鏡は さまざまな〈絵〉でいっぱいになる
人々は鏡を目にとめて 思い思いの視線を投げかける
あるひとは鏡の前に立ち止まり魅入られたように覗きこむ
またあるひとは鏡をちらりと眺めて通りすぎてゆく
それでも いちばん美しいひとは残るだろう
風にゆれる花のように〈美〉は寄り添いつづけるだろう
浄化された澄みわたる世界へ 水鏡とひとつに融けていった
ナルキッソス[ナルシス]が その頬に沁みてゆくまで
- 原詩 解説 翻訳メモ (II-III 予定)
XII (変身)
かわることを こころざそう
それが ぼくたちの生きることの情熱なんだ
誇らしくかわることの輝きのなかで 過去のものたちは
きみを離れ去ってゆく それがぼくたちの世界の真理さ
創造の精神は すぐれた芸術家(詩人)が見せる
あざやかな手際で かたち(言葉)が転換されてゆく瞬間を
愛してやまないものさ
こころを閉ざして かわることを怖れてはいけないよ
息を殺して灰色の部屋に閉じこもっているのが安全かい?
よく考えてごらん それは きみ自身の破滅だよ
かたく干からびたこころは簡単に砕けてしまうものさ
ほら! きみに振り下ろされようとしている あのハンマーが
きみには見えないのかい
泉のように深いところからあふれて 注がれてゆく
きみのこころが世界を見つけ きみ自身を見つけるんだ
きみはそんな世界にいる きみはそれを知っている
そのことだけで素晴らしいじゃないか そのことに気がついたとき
きみはすでに到達すべき地点にいるんだ
きみの新しい人生のはじまりさ
人生に別れはつきものさ
それでも つらさと悲しさをくぐり抜けたあとに訪れる
ほんとうの幸せがあるはずなんだ ほんとうに幸福な世界は
別れと悲しみが産み落とす子供たちなのさ
そのようにして 誰もが驚嘆の声をあげる世界が
ぼくたちのこころを通り抜けてゆく 月桂樹に変身したダフネは
きみのこころの世界と梢を揺らす軽やかな風がひとつになって
吹き抜けてゆくことを願っているのさ
- 原詩 解説 翻訳メモ (II-XII 予定)