T.S.エリオット 「荒地」 The Waste Land
海外の詩の翻訳シリーズ。
T.S.エリオット『荒地』 The Waste Land (1922) 日本語訳(エリオットの目次と年譜はこちら)。
はじめに
『荒地』は、当時最先端の実験的手法、モダニズムのスタイルで描かれる。エリオットは、それぞれのパーツ(要素)を知的な手際でクールにコラージュしてゆく。自在なイメージの展開、多彩な語りの技術、けっして野暮にならない奥行きのある描写、その手腕はさすがだと思う。古典からの引用、料理の仕方も上手い(それらが難解に終わらない表現の「おいしさ」がある)。
神話や伝説の枠組みを巧みに使い、モダニズムの技術と感性が、近代的な都市生活者のありさまと第一次世界大戦を通過した時代の心象風景(荒廃、不安、幻滅、孤独など)をシャッフルして再構築する。するとそこに奇妙な破れ目(ほころび)が見えてくる。でも、その正体は分からない。破れ目の奥(闇)に光は届かない(どう繕えばいい?)。モダニズムの詩的世界は、その「破れ目」を際立たせるための装置だったのだろう。
- 題辞と献辞 Epigraph & Dedication
- I. 死者の埋葬 The Burial of the Dead
- II. チェスのゲーム A Game of Chess
- III. 火の教え The Fire Sermon
- IV. 水死 Death by Water
- V. 雷の語ったこと What the Thunder Said
※ 原詩の行の配列をほぼ維持して訳しています。自然で分かりやすい日本語の表現をこころがけました(翻訳の詳細は別ページの解説、翻訳ノートを参照して下さい)。
※ [ ]は、わたしの補足です。「 」は原詩の表記に従いました。
※ 『荒地』岩崎宗治訳(岩波文庫)、『荒地・ゲロンチョン』福田陸太郎 森山泰夫 注・訳(大修館)を翻訳の参考にしました。
日本語訳 荒地
題辞と献辞
実際のところ 私はクーマエでシビュラが
瓶のなかにぶらさがってるのをこの目で見たよ
子供が彼女にギリシャ語で シビュラなにがしたいの と訊くと
彼女は 死にたいのよ と答えていたよ
より優れた詩人
エズラ・パウンドに
I. 死者の埋葬
四月はいちばん残酷な月だ
ライラックを死の土地から育てあげ
記憶と願望を乱雑にもつれあわせ
ぼんやりした〈根〉を春の雨で[不穏に]活気づける
冬はあたたかに装ってくれた 降る雪が
大地をおおい 記憶を曖昧に隠してくれた
球根は乾いていて ささやかな人生を享受した
夏には驚きがあった シュタルンベルク湖の方角から
通り雨がやって来た 私たちは柱廊の下で雨宿りした
それから日が差すのを待って ホーフガルテンで
小一時間 コーヒーを飲みながら会話を楽しんだ
ロシア人ではなくて リトアニア生まれのドイツ人です
わたしたちは子供でした 大公のお屋敷に泊まっていたとき
従兄が わたしをソリ遊びに連れ出したけれど
怖くて怯えてしまった 彼の声が響いた マリイ
マリイ しっかりつかまっているんだ それから滑り降りた
山の自然のなかでは くつろいだ気分になれます
夜はいつも本を読みます 冬は南へゆくんです
胸を締めつけてくる この〈根〉はなんだ? どんな枝が
石ころのガラクタから育つというのか? 人間の子よ
君には想像できないし 語れないだろう 君が見知っているのは
壊れた不完全な〈像〉の集積にすぎない そこでは太陽が容赦なく輝き
日差しを避ける朽ち木の影もなく コオロギの鳴き声が安堵を
もたらしもしない 乾いた石に水の気配はない
たったひとつ 赤い岩のもとに影がある
(赤い岩の影に入ってごらんなさい)
まだ見たことのないものを 君に見せてあげよう
それは朝の日差しのなかで君の後ろについてくる影ではなくて
夕暮れの長く延びて君を迎えてくれる影でもない
君を恐怖に突き落とす ひとつかみの〈塵〉を見せてあげよう
さわやかに風が吹き抜けてゆく
故郷へ
アイルランドの少女よ 君は
いまどこにいますか?
「一年前 あなたが最初に下さったのはヒヤシンスでしたね
「あのとき以来 ヒヤシンス嬢と呼ばれています」
ヒヤシンス園から ふたりで遅く帰ってきたとき
君は髪を濡らして 両手いっぱいに花を抱いていた 私はなにも
言えなかった 視界はかすんしまって 生きているのか
死んでいるのか なにも分からず ただ静けさのなかで
こころのなかの淡く光る一点を見つめていた
鈍色の空虚な海よ
千里眼で有名なマダム・ソソストリスは
あいにく風邪をひいていたのだが
魔術的なタロット占いでは ヨーロッパで屈指の
腕前だという これよ と彼女は言った
これがあなたのカード 溺れ死んだフェニキア人の水夫
(この真珠が彼の瞳よ ごらんなさい!)
これはベラドンナ 美しい岩窟の淑女
彼女はさまざまな境遇をあらわします
これは三本の棒[ステイブ]と男 これは運命の輪
そしてこれは片眼の商人 ここのカードは
空白になっていますね これは彼が背負って運ぶなにかですが
私には禁じられた領域です 吊し人のカードは
出ていません 水死の心配があります 気をつけて
群衆が見えます 人々が輪になって歩いている
ありがとう もしエクィトーン婦人にお会いになったら
ホロスコープはこちらからお持ちしますとお伝え下さい
この頃は なにかと注意深くしないといけません
空想の都市
冬の夜明け 朝霧はブラウンに染まっていた
ロンドン橋の上にたくさんの人たちの流れがあった
〈死〉がなしたことの大きさを思わずにはいられなかった
彼らはときおり短く溜め息をついて
動きのない眼差しは 終始 足もとを見つめていた
その流れは坂道を上り ウィリアム通りを下った
サンタ・マリア・ウルノス教会は九時の鐘を打ち鳴らすと
それを最後に沈黙した
私は知人をみつけて呼び止めた 「ステットソン!
「君とはミュラエの海戦で一緒だったね!
「君は昨年 死体を庭に植えたそうじゃないか
「それは芽を出したかい? それは今年 花を咲かすのかい?
「それとも 突然の霜にやられてしまったかい?
「犬を近づけるんじゃないぞ 人にとって友達でもな
「その爪で また掘りおこしてしまうぞ!
「君! 偽善の読者! 同胞 兄弟よ!」
II. チェスのゲーム
椅子は彼女を収めて つややかな玉座のように
大理石の上で燦然と輝いた 姿見の支柱は
ブドウの房と蔓の彫り物で飾られ そこから
金色のキューピットが こちらを覗っていた
(もうひとりは翼で目隠しをしていた)
七枝の燭台[メノーラ]が炎を増して
テーブルの上に怪しく光を映すと
彼女の豪華な宝石たちが きらきらと
サテンの小箱からあふれ出る輝きで応えた
蓋を外された象牙や色ガラスの小瓶には
風変わりな合成香料[安物の香水]
乳液 白粉 化粧水が潜んでいた その悩ましい香気が
混じり合い 感覚=嗅覚を混乱させ 溺れさせた
窓から入ってくる新鮮な空気に掻き回された香気は
長く伸びた蝋燭の炎を増長させながら立ち昇り
その煙を勢いよく格天井に吹きかけて
規則正しく並んだ格間[装飾]を歪め 攪乱した
大きな海の流木が銅の地金と共に
カラフルな石に囲まれて グリーンとオレンジに燃えていた
悲しい光のなかを透かし彫りのイルカが泳いだ
古風なマントルピースの上に飾られた絵は
森の情景を窓から眺めているようで
それは鳥へと姿をかえたピロメラだった 野蛮な王によって
彼女は荒々しく犯された それでもナイチンゲールは
神聖なその声で不毛の大地をみたした
彼女は鳴きつづけ いまも世界は〈声〉を追いかけている
穢れた耳に「ジャグ ジャグ」と鳴き声が響く
それとは別の枯れた時間[現代]の切り株が語った
壁の人物たちが こちらを見据え
身を乗り出し 寄り掛かり 部屋を取り巻いてお静かにとなだめた
足を引きずり階段を歩く靴音が聞こえた
燃えさかる炎に照らされて 彼女が髪にブラシをかけると
毛先は火の色に染まって広がり
白熱は言葉になった それから粗野な静寂が訪れる
「今夜は神経がたかぶって具合がよくないの 一緒にいて
「なにか話をして なぜ黙っているの? 喋りなさいよ
「なにを考えているの? 考えていることはなに? なに?
「あなたの考えていることは さっぱり分からない 考えは」
我々はネズミの路地にいる と私は考える
そこは死んだ人間が自分の骨を見失うところ
「あの音はなに?」
ドアの下から風が入ってくるんだよ
「いまもしているでしょ? 風はなにしているの?」
なにもしないよ なんでもないよ
「あなたは
「なにも知らないの? なにも気がつかないの? なにも覚えて
「いないの?」
私は思い出す
その真珠は 彼の瞳だった
「あなた 生きてる 生きてない? 頭は空っぽ?」
しかし
おおおお あれは シェイクスピヒアリアン・ラグ
とても エレガントだ
そして インテリジェントだ
「いまからなにをすればいい? なにしようかな?
「このまま部屋を飛び出して 通りを歩いてみようか
「髪を下ろしたまま[怠惰に] 明日はなにをしたらいい?
「私たちは なにをすべき?」
十時に熱いシャワーを浴びて
もし雨だったら 四時にセダンの車
そしてチェスに興じる
執拗に目を見開いてドアのノックを待ちながら
リルの亭主が除隊になったとき わたし言ったの
はっきりとね 彼女に言ってやった
お急ぎ下さい 時間になります[まもなく閉店です]
アルバートが帰ってくるでしょ もう少し賢くなりなさいよ
彼 知りたがるでしょうね 歯を入れるためのお金のこと
どうしたのかって そのとき わたしも一緒にいたんだから
すべて抜いてしまって リル 綺麗な歯にするんだ
言っていたでしょ 本当だよ ぼくには耐えられないんだって
わたしだってそうよ アルバートが気の毒よ って言った
四年のあいだ兵役に就いていたのだから よい思いがしたいのよ
彼のことつれなくしたら ほかにもいるんだから って言った
あら ほかにね って彼女が言うから そんなものよ って言うと
誰に感謝することになるのかしら ってじっと見つめられた
お急ぎ下さい 時間になります
あなたにそのつもりがないのなら 好きにすればいい って言った
あなたじゃなきゃダメってことないのよ ほかにいくでしょ
アルバートに捨てられるわ ちゃんと話はしておきましたからね
恥ずかしいわよ って言った ふるぼけたアンティークみたいよ
(彼女 まだ三十一よ)
浮かない顔して 仕方ないのよ って言っいてた
クスリのせいよ 子供を堕ろしたのよ って
(彼女は五人の子持ちで 末っ子のジョージのときに死にかけた)
薬剤師は大丈夫だって でも それからおかしくなった
本当にお馬鹿さん って言った
アルバートが一緒に寝たいっていうなら そうよね
子供を望まないなら どうして結婚しているの って言った
お急ぎ下さい 時間になります
そして日曜日にね 帰ってきたアルバートとギャモンを食べた
夕食に招いてくれたのよ 出来たての上等な奴を食べようぜって
お急ぎ下さい 時間になります
お急ぎ下さい 時間になります
おやすみ ビル おやすみ ルウ おやすみ メイ おやすみ
バイバイ おやすみ おやすみ
おやすみ ご婦人方 おやすみ 素敵なご婦人方 おやすみ おやすみ
III. 火の教え
河の天幕[世界]は破れた 最後まで残っていた
数枚の葉も ぬかるんだ岸に沈んだ 風はなにも語らず
もの静かに茶色い地面をなぜてゆく ニンフたちは消えてしまった
美しいテムズ河 私が歌い終えるまで 穏やかに流れておくれ
河岸に 空の瓶が サンドイッチの包み紙が シルクのハンカチが
ボール紙の空き箱が 煙草の吸い殻が 夏の夜の名残が
散らばることもなく ニンフたちはよそへ行ってしまった
友人たち お偉いさんの息子たちが街を遊び歩いていたのは
むかしのお話 みんな去っていった どこにいるのかも分からない
レマン湖の岸辺に腰を降ろして泣いた……
美しいテムズ河 私が歌い終えるまで 穏やかに流れておくれ
美しいテムズ河 手短にささやくから 穏やかに流れておくれ
けれど 背後から冷たい風が吹き抜けると がたがたと
骨が鳴って くすくす笑いが耳から耳へといっぱいに拡がった
ネズミが土手の草のあいだをのそのそと
泥だらけの大きな腹を引きずるように歩いていた
澱んだ運河で釣りをしながら その様子を眺めた
ガス工場のむこうには冬の夕暮れがあった
私は国王の兄が破滅したことに思いを巡らし
それを知ることなく死んだ先代の国王のことを思った
白い裸体が湿っぽい低地によこたわり
骨は狭くて乾いた屋根裏部屋にほうり込まれた
ネズミだけが毎年毎年 かたかたと元気に走りまわった
後ろの方から ときおり聞こえてくる音があった
クラクションとエンジンの唸りは おそらく
スウィーニーがポーター夫人のいる泉にむかっているのだろう
おお 明るく輝く月が ポーター夫人と
娘を照らしていた
ふたりは炭酸ソーダ[洗浄剤]で足を洗っていた
おお 大聖堂に響く少年たちの歌声が聞こえる!
トゥイトゥイトゥイ
ジャグジャグジャグジャグジャグジャグ
荒々しく犯行はおこなわれた
テリュー
空想の都市
冬の正午 ブラウンの霧が立ち込めていた
スミルナの貿易商 髭面のユーゲニデス氏は
ポケットにロンドンまでの輸送費と保険付きの干し葡萄
ひと目でそれと分かる船荷の証書を詰め込んでいた
彼は親しげなフランス語で
キャノン・ストリート・ホテルで昼食をどうですか
週末はメトロポールへ一緒に行きませんか と私に尋ねた
菫色に染まる時刻 疲れた眼と背中が
事務机から離れるとき それを待つ人間のエンジンには
客待ちをしているタクシーのようなときめきがある
私テイレシアスは盲目だったが ときめきくふたつの人生を送った
年老いた男の皺の寄った胸は女のそれだった 同様のものを
菫色に染まる時刻に見ることが出来る 家路へとむかう
夕暮れ時 船乗りは海から我が家へと帰ってくる
タイピストはティタイムに帰宅する 朝食の片付けをして
ストーブに火を入れると缶詰で夕食の支度をはじめる
窓の外には危なっかしいものが広がっていた
太陽の最後の光を浴びた彼女の下着だった
ソファー(夜にはベッドになる)の上には ストッキング
ルームシューズ キャミソール コルセット が折り重なっていた
私テイレシアス 女の胸を持った年老いた男は
このような光景を認めて これから先のことを予言した
彼女と同じように期待して 来客の訪問を待った
やって来たのは小さな不動産屋に勤める
ニキビ面の若い男で 大胆にじろじろと彼女を見つめた
粗野で その自信たっぷりの眼差しは
ブラッドフォードの金持ち連中のシルクハットようだった
ちょうどよい頃合いだな と彼は考えた
食事を終えた女は疲れて退屈している
やさしく愛撫をして 彼女をその気にさせよう
もし気分が乗らなくても まあ 拒みはしないだろう
彼は頬を紅潮させると意を決して事におよんだ
まさぐる彼の手が拒まれることはなかった
うぬぼれ屋だった彼は女の無関心=無抵抗を歓迎した
その反応を必要としなかったのだ
(私テイレシアスはベッドだかソファだかで演じられた
これとそっくり同じ事をすでに経験していた
テーベの壁のもとに腰を降ろしていたとき
私は死の底=無感覚の底のなかを歩いていた)
いつもそうするように 彼は最後のキスをきめると
手探りで明かりの消えた階段を見つけて……
彼女はふりむいて鏡に短く視線を投げかけた
出ていった恋人のことを気にしたつもりはなかった
思いが形にならないまま口から言葉が飛び出した
「こんなものよね これで終わり よかったじゃない」
かわいい女がおろかな恋に身を落とすとき
彼女はひとりさみしく自分の部屋に戻り 落ち着かない
手はさり気ない仕草でさらりと髪をなでつけ
蓄音機にレコードを乗せる
「曲は私を通りすぎて 水上を這うように漂った」
ストランド通りからクイーン・ヴィクトリア通りまでゆく
おお シティ 都市よ その喧噪を私はときおり聞いていた
ロウア・テムズ通り 安酒場の界隈では
楽しくて どこか切ないマンドリンのメロディが響き
がちゃがちゃと食器が音を立て 騒々しい話し声があふれてくる
正午 魚河岸の男たちがくつろいでいる そこでは
殉教者マグナス教会の華麗な壁 イオニアふうの白と金が
この世のものとも思えない輝きを見せている
河の汗は
オイルとタール
荷船が漂流するのは
潮目がかわったから
赤い帆を
ひろげ
風下へと太い帆柱が揺れる
荷船がさらってゆくのは
漂う丸太
グリニッジまで
犬の小島をすぎてゆく
ウェイアララ レィア
ウァルララ レィアララ
エリザベス女王とレスター伯が
櫂を漕ぐ
船尾は
貝殻の装飾
赤色と金色
荒い波が
両岸に打ち寄せる
南西の風が
くだりの流れをつくる
鐘の音
白い塔
ウェイアララ レィア
ウァルララ レィアララ
「路面電車と埃まみれの並木
ハイベリーで生まれて リッチモンドとキューで
人生が破綻した リッチモンドでは狭いカヌーのなかで
両膝を立てて仰向けになった」
「足先はムーアゲートの方をむいて その下に
わたしの胸があった 事を終えると
彼は泣いていた 新しい人生をはじめるんだと約束した
返事はしなかった どこにむかって腹を立てたらいい?」
「マーゲイトの砂の上だった
わたしとつながるものは
なにもないのだから なにもない
汚れた手の割れた爪
わたしのまわりの つまらないひとたち 期待するものは
なにもない」
ララ
そしてカルゴダに私はやって来た
燃えている 燃えている 燃えている 燃えている
おお 主よ汝は 私を引きあげる
おお 主よ汝は 引きあげる
燃えている
- 原詩 解説 翻訳ノート (予定)
IV. 水死
フェニキア人 フレバス その死から二週間
カモメの声も届かず 深い海のうねりも見えず みんな忘れた
損得勘定も もう分からない
海底の潮流が
かすかな音を立てて骨を洗った 骨は浮き沈みしながら
若かったあの頃を 年老いたあの頃を 次々に通りすぎて
渦のなかへ入っていった
異教徒もユダヤの民も
おお 舵を風上にとるものは
フレバスを思い浮かべよ かつては美男子で背も高かった
- 原詩 解説 翻訳ノート (予定)
V. 雷の語ったこと
汗ばむ顔を照らす松明の赤 そのあとに
庭園の寒々と凍える沈黙 そのあとに
石ころだらけの土地の堪えがたい苦痛 そのあとに
わめき散らし 泣き叫ぶ
牢獄と宮殿と残響は
遙かな山並みの上方から轟く春の雷
生きていたあのひとに いまは死が訪れ
生きていた私たちに いまは死が迫る
ささやかに堪え忍びながら
ここに水はなく あるのは岩ばかり
岩があり 水はなく 砂の道がある
曲がりくねった道は山々を巡り
岩の山に水はなく
水があれば 私たちは立ち止まり飲むだろう
岩のなかでは立ち止まることも 考えることも出来ない
汗はたちまち乾いて 足は砂に沈む
岩間に水さえあったなら
唾の飛沫もない虫歯の口 死の山
ここでは立っていることも 横になることも 座ることも出来ない
山々にあって静寂すらない
雨をもたらすことのない乾いた不毛な雷が轟く
山々にあって独りにしてはくれない
不機嫌な赤ら顔のあざ笑い 威嚇するような唸りが
ひび割れた泥の家の戸口からもたらされる
水があったなら
岩はなく
たとえ岩があっても
水もあり
水だ
泉
岩の間に水が溜まっている
水の音でいいからあったなら
蝉の鳴き声ではなく
枯草の歌う声ではなく
岩を越えてもたらされる水の音
そこではチャイロコツグミが松の木立にとまっている
滴り ポタリ 滴り ポタリ ポタリ ポタリ ポタリ
でも水はない
いつも君の隣を歩いている三人目の人物は誰だ?
私が数えると 私と君の二人がいるだけだが
白い道の先まで見通すと
君の隣を常にもうひとりの人物が歩いている
宙を滑るように 茶色のマントにフードを被り
男なのか女なのかも分からない
――にしても 君の「あちら側」にいる人物は誰だい?
空の高みで響くものはなんだ
母のような悲嘆のざわめき
フードをかぶった人たちが大勢あふれているのはなんだ
果てしない大地 そのひび割れた地によろめいて
あとはただ 平坦な地平線が三六〇度ひろがる
菫色の空に破れ目が生じ 改編され 爆裂する
崩落する塔
エルサレム アテネ アレキサンドリア
ウィーン ロンドン
空想[非現実]
女が長い黒髪をきつく引っぱると
囁くようなバイオリンの調べを弦は奏でた
乳児の顔をしたコウモリが紫色の光のなかで
口笛を吹き 翼をばたつかせて
黒ずんだ壁を頭を下にして這い降りていった
塔は空中で逆さにひっくりかえり
追憶の鐘を鳴らし 時を告げると
干上がった水溜と涸れた井戸から歌声が響いた
山中の崩れたこの穴で
仄かな月明かりに照らされて 草が歌っている
倒れた墓の上 礼拝堂の近く
空虚な礼拝堂は ただ風の住むところ
窓はなく 扉が揺れている
乾いた骨が誰かに害悪を及ぼすこともない
棟木の上にいち羽の雄鶏が止まっていた
コ コ リコ コ コ リコ
稲妻の閃光のなか 湿っぽい風か吹き抜けて
雨を連れてくる
ガンジスの水位は下がり 萎れた葉は
雨を待った そのとき黒い雲が
遙かヒマラヤ山脈の上空に湧き出した
ジャングルはうずくまり 背をまるめて押し黙った
そのとき雷が言った
ダー
ダッタ[与えよ] 私たちは何を与えたのか?
友よ 血が心臓をゆるがし
一瞬身を明け渡す恐ろしい暴挙
歳を重ねた思慮深さであっても抑えがたい
これにより これによってのみ 私たちは存在した
新聞の死亡記事に見つけることはできず
慈悲深い蜘蛛の巣に覆われた回想録にも
痩せた弁護士が開く封印のもとにも顕れはしない
空っぽの部屋の中で
ダー
ダヤズワム[相憐れめ] 私はドアの鍵を
廻すのを一度聴いた ただ一度だけ廻すのを
私たちは鍵のことを考える それぞれの牢獄の中で
鍵のことを考えながら それぞれの牢獄を確かめる
ただ夕暮れに 天から伝えられる噂が
虐殺されたコリオレイナスを束の間蘇らせる
ダー
ダミヤタ[己を制せよ] 舟は応えた
楽しげに 帆と櫂に習熟したひとの手に
海は凪いでいた 君のハートも応えるだろう
楽しげに 招かれたなら 胸の鼓動も
舟を制する手に従がって
私は岸辺に腰を下ろして
釣りをしていた 背後には不毛の平原があった
せめて自分の土地だけでも秩序を保っておくべきか?
ロンドン橋 落っこちる 落っこちる 落っこちる
〈そして彼は浄火の中に姿を消した〉
〈いつになったら私は燕のようになれるだろう〉 おお燕 燕よ
〈廃墟の塔のアキテーヌ公〉
こうした言葉の断片によって私は自身の崩壊に抗ってきた
仰せの通りにいたしましょう ヒエロニモ 再び狂う
ダッタ ダヤズワム ダミヤタ
シャンティ シャンティ シャンティ
- 原詩 解説 翻訳ノート (予定)
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