ディキンソン 「わたしは誰でもないひと! あなた 誰?」 I'm Nobody! Who are you?
海外の詩の翻訳シリーズ。
エミリー・ディキンソン、第2回「わたしは誰でもないひと! あなた 誰?」 I'm Nobody! Who are you? (288番 1861年)日本語訳と解説(ディキンソンの目次と年譜はこちら)。
※ [ ]は、わたしの補足です。
※ 『対訳 ディキンソン詩集』亀井俊介編(岩波文庫)を翻訳と解説の参考にしました。
日本語訳 わたしは誰でもないひと! あなた 誰?
わたしは誰でもないひと! あなた 誰?
あなたも――わたしと同じ――誰でもないひと?
だったら わたしたちふたりでひと組ね?
口には出さないで! みんなに知られてしまう――いいわね!
退屈なものね――[ひとかどの]誰かである――っていうのは!
よくご存じの――カエルみたいに――
六月のあいだはずっと――自分の名前を告げている――
うっとりしている沼地にむかって!
原詩 I'm Nobody! Who are you?
I'm Nobody! Who are you?
Are you — Nobody — Too?
Then there's a pair of us?
Don't tell! they'd advertise — you know!
How dreary — to be — Somebody! 5
How public — like a Frog —
To tell one's name — the livelong June —
To an admiring Bog!
参考:https://en.wikisource.org/wiki/I'm_Nobody!_Who_are...
※ 原詩は版によってカンマやダッシュ、大文字、小文字の使い分けなどに違いがある場合があります。こちらでは『対訳 ディキンソン詩集』で使われているテキストThomas H. Johnson: The Poems of Emily Dickinson, 1955に合わせました。
解説 誰でもない「わたし」と「あなた」の親密な関係
詩は、対照的に描き分けられたつふたつの連からつくられている。第1連は冒頭に Nobody のイメージを置いて、誰でもない「わたし」と誰でもない「あなた」の関係が語られる。第2連では Nobody に対比させた Somebody が置かれ、ひとかどの誰か(著名人)とその声に聞き入る人々(世間)の関係が、6月のカエルとうっとりする沼地に喩えられる。
1行目で「わたし」が「誰?」と語りかけている「あなた」は、どこの「あなた」だろう? (誰のことだろうね?)もしかして…… わたしのこと? わたしも、まあ「誰でもないひと」ですが…… そのように空想してみることは楽しい。「あなた」に詩の読者のイメージをかさね合わせると、ここに詩の語り手と詩の読み手の関係(交わり)が見えてくる。
3行目の a pair に注目しよう。「わたし」は Nobody 「誰でもないひと」をお互いの共通点にして、「わたしたち」の関係を「ペア」(一対、ひと組)ね? と問う(相手に同意を求める)。はさみ一丁が a pair of scissors と表現されるように、そこにはふたつ(はさみの場合は2枚の刃)が組み合わさってひとつのものとして存在する(機能する)つよい結びつきが感じられる。
詩を楽しむ場合もそうかも知れない。詩の言葉とそれを聴くわたしのこころが「ペア」(一対、ひと組)と呼べる親密な状態になったとき、そこにエモーショナルなものが生まれる。誰でもないひとであることが、ペアになるための条件であり、誰かであるという(過剰な)自己意識から解放されたこころの身軽さ、自在さが、魔法のように「わたし」(詩の語り手)と「あなた」(詩の読み手)をひとつにする(素敵ですねぇ~)。
4行目で「わたし」は、そのような互いの関係を「口には出さないで」(黙っていて)と語る。わたしたちだけの秘密にしておきましょう…… (大切なことは誰にも知らせずに隠しておくのがいちばん…)世間から距離をおくことで、その親密さの関係は、より深いものになる。
第2連は第1連のイメージを反転させた形で展開される。Somebody 「(ひとかどの)誰か」であることが6月のカエルに喩えられる。沼地(世間)にむけて、自分をアピールすることに(その評判を高めることに)ご熱心なカエルの姿をリアルに想像すると思わず笑ってしまう。あるいは、ディキンソンは実際の誰かを念頭に置いて、彼(あるいは彼女)を6月のカエルに喩えたのかもしれない。いつの時代のどの場所にも6月のカエルのような方はいらっしゃる。そして時期が過ぎれば、その鳴き声(名前)は聞こえなくなり、沼地(聴衆、世間)は何事もなかったかのように静けさを取り戻す。
詩のつくられた1861年に鳴いていたカエルの声を、いまも聞くことはあるだろうか? (どうなのだろうね?)詩に歌われた「わたし」と「あなた」は、さまざまな時代や地域を渡り歩きながら、しなやかな無名性、「誰でもないこと」によって結ばれるよろこびを届けてくれる。
翻訳ノート
自然な語りの雰囲気を大切にして訳してみた。
1~4行 第1連
1行目 Nobody 「誰でもないひと」(亀井俊介訳他、一般にはそのように訳されているようです)は「名もなきひと」でも、いいかなとも思う。
わたしは名もなきひと! あなた 誰?
あなたも――わたしと同じ――名もなきひと?
どうだろう…… (これでいいような… 少し違うような…)
3行目 a pair of のところは「ペア、一組」のイメージ大切にして、「ふたりでひと組ね」と訳してみた。
5~8行 第2連
5行目 dreary は6月のよく鳴くカエルの情景から「(話など)退屈な、おもしろくない」の方向で訳した(もう少しぴったりとした言葉があるかもしれない…)。Somebody は第1連との対比が明確になるように[ひとかどの]と言葉を補足した。
ディキンソンの詩の言葉には、ゆたかな表情がある。いきいきとした言葉たちのなかで翻訳する作業は楽しかった。
- 次回 「鳥たちの夏よりさらに晩く」(第3回)
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