鞠二月二日堂

詩と芸術のブログ

T.S.エリオット 「荒地」 チェスのゲーム A Game of Chess 《2》 翻訳ノート 1

 T.S.エリオット『荒地』 チェスのゲーム A Game of Chess 《1》 日本語訳 解説 からのつづき(『荒地』日本語訳だけをまとめて読みたい方はこちら)。

翻訳ノート

 「チェスのゲーム」の3つのパート(A:77~110行目、B:111~138行目、C:139~172行目)は、それぞれの詩的な情景を反映した語りのトーンを持っている。日本語に訳す場合も、そのような描きわけを上手くこなしたい(これがなかなかむつかいしい…)。

77~110行 豪華な部屋と女性のパート (Aパート)

 Aパートは語りの調子をつかむのに時間がかかった。冒頭の数行を訳してみるも、いまひとつしっくりこない。なにか違う気がするのだけれど、なにがどう違うのは分からない(どうしたものか…)。

 「チェスのゲーム」は THE Chair she sat in, とはじまる。既存の訳をみてみると、

彼女の坐る〈椅子〉は、(……)

 ※ 岩崎宗治訳

かの女[ひと]の座した椅子は、(……)

 ※ 福田陸太郎・森山泰夫訳

 となっていて、岩崎宗治の解説には、

 「彼女の坐る〈椅子〉は……大理石の上で輝き」はシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』二幕二場で、クレオパトラの玉座の豪華さを述べるイノバーバス台詞「彼女の坐る小舟は、磨きあげられた玉座のように、水の上で燃えるがごとく……」のもじり。(……)この一節の女性の豪華な部屋の描写は、誇張文体のもじりになっている。

 とある(なるほど…)。シェイクスピアの戯曲ではクレオパトラの美貌や精神の激しさが〈もの〉にたとえられて(置き換えられて)表現される。Aパートの女性と〈もの〉の関係はどうかというと、エリオットの描き方はシェイクスピアそれとはやや違って、彼女を取り囲む〈もの〉の在り方が、逆に彼女の在り方~人物像を規定しているふうな印象を受ける。

 詩行は She 〈ひと〉ではなくてTHE Chair と〈もの〉のヴィジョンからはじめられる。椅子に腰掛ける女性の容姿や仕草などの描写は省略されていて、それにかわって椅子から姿見、テーブルの上の燭台と〈もの〉たちの巧みなリレーによって詩的世界が構築されてゆく(オチとして髪にブラシをかける女性が描写される)。Aパートを牽引してゆくのは〈もの〉たちであり、日本語に訳すときも原詩と同じように〈もの〉から入ってゆくのがよいのではないか? 詩行を「椅子」からはじめるとすると……

 椅子は彼女を収めて~ 輝いた、というフレーズがどこからともなく思い浮かんだ。これでいいんじゃないか? 日本語への正しい訳といことでは、いささか問題がありそうだけれど、Aパートの主題から眺めると〈もの〉と〈ひと〉の関係がより明快に表現されているともいえる(直感が与えてくれたものを大切にしよう)(このあり個人的な試みということで…)。冒頭の訳がきまると、あとはするすると訳すことが出来た(詩の訳は調子をつかむことが大切です)。

 82行目 sevenbranched candelabra 「七枝の燭台(七つに枝分かれした燭台)」はユダヤ教で使われる燭台メノーラ menorah のこと。訳では[メノーラ]と補足した。ネットで検索してみたところ日本語の情報があまりないみたいなので、手許にある「シンボル辞典」(三省堂)からの抜粋を引用しておきますね。

 モーセの七本枝のついた大燭台〈メノラー〉[「出エジプト記」25:31-40 ]は、神の臨在を示す(獣油のろうそくはヤハウェに捧げられたもの)。

 ユダヤ人歴史家ヨセフスによれば、燭台の七本の枝は、太陽と月と惑星、一週間の七日、大熊座の七つ星、世界の七つの周期ないし気力をあらわす。古代のユダヤ人哲学者フィロンによれば、〈メノラー〉は天的なすべてのもののために働く恩寵をあらわす。

 部屋にメノーラがあることから、この女性はユダヤ人かもしれない(岩崎宗治の解説)。黒髪、(キリスト教からみた)異教徒という設定から、ユダヤ人女性~魔女~呪術、超自然的な事象、というような深読みも出来るかもしれない(メノーラはAパートの内容、方向性を示唆する〈もの〉と考えることも出来る)。

 92行目 laquearia 「格天井[ごうてんじょう]」は、正方形や八角で形成された格間(区画)によって形成された天井。格間は絵画や装飾模様で飾られていることがおおい。エリオットの原注によると『アエネーイス』1巻726行目、カルタゴの女王ディドーがアエネーアース(トロイアの英雄)のために晩餐会をひらいた豪華な広間の描写からとったもの。女王ディドーはアエネーアースとの愛に破れて焼身自殺してしまう。

 93行目、天井の格間が立ち昇る煙~香気(合成香料など)によってかき乱される描写は、古典の世界観(物語の様式)が現在の〈もの〉との相互作用によって歪められ、乱されるイメージで訳した。解説でもいくらか語ったけれど、作品に組み込まれた古典をひとひねりして、あるいは反転して〈いま〉を照射する仕掛けへと転化すところに詩人エリオットの冴えがあると思う。

 94-96行目、切り詰められた表現になっていて内容の把握がむつかしい。原詩と既存の訳は、

Huge sea-wood fed with copper
Burned green and orange, framed by the coloured stone,
In which sad light a carvèd dolphin swam.

銅の地に生えた大きな海草の森が
色染め石で縁どった爐[いろり]の中で緑とオレンジに燃え、
悲しげな光の中を、レリーフの海豚[いるか]が泳いだ。

 ※ 岩崎宗治訳

銅皿で養われた巨大な海底の森は
色とりどりの石に囲まれて緑に橙に燃え、
その悲しい光の中を彫刻のいるかが泳いだ。

 ※ 福田陸太郎・森山泰夫訳

 となっている。原詩に炉棚、暖炉などの言葉はなくて、97行目に the antique mantel 「古風なマントルピース(炉棚・暖炉)」とあり、それによって、94-96行目が暖炉の描写であることがわかる組み立てになっている(と思われる)。福田陸太郎・森山泰夫の解説では、

 sea-wood:暖炉の中で燃えている薪を、海草の森に見立てて言った言葉であろう。(……)なおこの語は、薪として用いられる「流木」の意味かとも思われるが、詳細不明。

 copper:銅製の火格子(fire grate)のことであろうか。詳細不明。

 とある。既存の訳は「海草の森」「海底の森」を表に出した訳になっているけれど、わたしとしてはいまひとつしっくりこない。Aパートでは部屋の〈もの〉たちが、椅子、姿見、燭台、小箱、というように明示的に示されて、そこから神話の領域へと情景が展開してゆく。エリオットがこの箇所だけ描写の手法を変えたとは考えにくい。また暖炉の薪は横向きに置かれるので、それを森に見立てるのはややむりがあるような気もする。わたしの訳では sea-wood を現実の〈もの〉として海の流木の方向で訳した。

 参考:ネットで検索してみると暖炉で流木を燃やしている方もいらっしゃるようです。また、海の流木は塩分などを含んでいるので暖炉で燃やすことにはむかないとの記述もありました。

 94行目 copper 「銅、銅製のもの」は薪をのせる火格子のことだろうか(あるいは流木(薪)を火掻棒などで炎に押し入れたといようなことかもしれない)。銅は炎色反応で青緑色に発色することから、95行目 Burned green and orange 「緑とオレンジに燃え~」というような描写へと展開されたと考えられる。銅という素材の表現と次行の緑色の炎ということから流木と銅とがいっしょに燃えている描写と理解して訳してみた。

 参考:流木を燃やすと青い炎になるというようなことも言われているようです(ネットの情報)。流木に染みこんだミネラル成分によって炎の色が変化するのかな? 

 96行目 carvèd dolphin 「彫刻のイルカ」は、暖炉の前面に置かれた柵の装飾だろうか。そのように理解すると光~炎のなかをイルカが泳いでいるように見えるのでしっくりくる。柵の装飾ということで「透かし彫りのイルカ」と訳してみた。キリスト教の視点から眺めると、イルカには「魂の救い主」「死の海を越えて魂を運ぶ者としてのキリスト」というような意味がある(「シンボル辞典」より)。ここの描写は、炎の海を渡るイルカ=キリストから着想されて、それが暖炉の情景に投影されたのかもしれない。sad light 「悲しい光」と dolphin 「イルカ(キリスト)」の組み合わせにキリスト教の〈いま〉が象徴されているようでもある(どこか切なくて、魂に直接響いてくるような奥行きのあるヴィジョンです…)。

 97-103行目、視点が暖炉からその上の掛けてある絵画(額縁に入った油彩画と思われる)に移動する。絵には森の風景が描かれている。エリオットの原注によると sylvan scene 「森の風景、情景」はジョン・ミルトン失楽園』第4巻からとられたもの。エデンの園にセイタン(サタン)がむかったとき最初に目にした森の光景だそうてです。そこからピロメラの物語に展開される。Philomel 「ピロメラ、ピロメーラー」については原注にオウィディウス『変身物語』第6巻ピロメラの節を見よとある。ピロメラの物語については岩崎宗治の解説に詳しい。そちらを引用しておきますね(抜粋)。

 アテナイ王パンディオンの娘ピロメラは、トラキア王テレウスに陵辱され舌を切られたが、タペストリーを織って、何が起こったかを姉でテレウスの妻であったプロクネに知らせた。プロクネは自分とテレウスのあいだに出来た子を殺し、彼に食べさせて復讐した。テレウスは二人を追ったが、ピロメラはナイチンゲールに、プロクネは燕に変身して森に逃れた。(……)ピロメラ陵辱のモチーフは、第III部204行目の「ジャグ、ジャグ、ジャグ……」と呼応することを、エリオットは100行目への原注で記し、陵辱が〈荒廃〉の一因であることに読者の注意を喚起している。

 既存の訳では暖炉の上の絵画が「ピロメラの変身の絵」(岩崎宗治訳)「化身したフィロメラの絵」(福田陸太郎・森山泰夫訳)というふうに神話の情景を描いた絵画として訳してある。わたしの感覚はそれとはちょっとちがって、暖炉の上の絵画は森の風景を描いた一般的なものであり(97行目)、ありふれた風景画に詩的イマジネーションが『創世記』の失楽園にでてくる森のヴィジョンを与え(原注)、さらにギリシャ神話で語られるピロメラがナイチンゲールに姿を変えて逃げた森になる(98行目)というふうなダイナミックな展開として読んだ(訳もそのようなニュアンスで訳してみました)。

 (その絵がピロメラの変身の絵なら、それはそのようにしか見えない。とすると、その絵に失楽園の森の原注を入れるというのがよく分からない。ギリシャ神話の森は旧約聖書の森でもあるということ?)

 104-106行目、暖炉の上の絵から壁面の別の図像~イメージに視点が移動する。具体的な描写に乏しいので、どのように訳すのがよいのかよく分からない(いまもよく分かりません…)。既存の訳も岩崎宗治、福田陸太郎・森山泰夫でニュアンスが異なる。

And other withered stumps of time
Were told upon the walls; staring forms
Leaned out, leaning, hushing the room enclosed.

ほかにも枯れた時間の切り株のように
物語が壁の面にかかっていた。絵の中の人物たちは目を見開き、
身をのり出し、のり出しつつ部屋を沈黙で包んだ。

 ※ 岩崎宗治訳

ほかにも「時」の枯れた切り株の話が
壁の面に残っていた。あたりを睨み据える数々の姿が
傾いていた、傾きながら息づまるように部屋を囲んで。

 ※ 福田陸太郎・森山泰夫訳

 壁の別の図像(絵画や彫像など)はどのようなものだろう? 104行目 other withered stumps of time 「他の枯れた時間の切り株」といわれましても…… 原詩でここをはじめて読んだとき、この time は「時間軸」のことかな? と直感的に思った。これ以前の詩行では〈神話の時間〉が語られている。「他の~」ということは、神話とは別の時間、つまり〈現在の時間〉ということではないのか? 詩の組み立てとしては、どこかで時間軸を神話の領域から現在に戻す必要がある(時間軸の転調)。この部分はその役割をになっているのではないか。

 岩崎宗治の解説には「古い神話のエピソードを描いたタペストリーが壁にかかっている。その一つがテレウスによるピロメラ陵辱の話らしい。「切り株」はピロメラの切られた舌を(……)連想させる」とある。ピロメラの物語は103行目で "Jug Jug" 「ジャグ、ジャグ」とその鳴き声が効果的に描写されてクライマックスが形成される(Aパートの山場)。詩がそのように組み立てられているとすると、その後の詩行にピロメラのモチーフが継承されたとは考えにくい(不気味な鳴き声の効果が弱くなる)。

 福田陸太郎・森山泰夫の解説では「枯れた切り株」を「人間が古来の古来の信仰・伝統などを無視していることに言及したもの」とあり、わたしの理解もそれに近い(信仰から切り離された現代人は干からびた荒地の切り株のようでもある…)。神様が輝いていた時代であれば、ナイチンゲール(ピロメラ)の鳴き声~陵辱のエコーに対して、信仰~祈りがこころを安らかな状態へと導いてくれた。では、神様の輝きが褪せた現代はなにによってこころの平安、安定を得ればよいだろう?

 105行目 staring forms に注目したい。staring は starring,star 「主役にする」「スター、花形、人気者」にひっかけているような気もする。とすると、ここでの図像は当時のスター、人気の舞台俳優や映画俳優(?)ということが考えられる(どうだろうね?)。お気に入りのスターがこころの慰めとなり、不穏に昂ぶった精神を鎮めてくれる。20世紀を代表する現代美術の作家アンディ・ウォーホルマリリン・モンローエルビス・プレスリーを現代のイコンとしてシルクスクリーンでカンバスに転写した。イエス・キリスト(あるいは聖母マリアなど)を描いた聖画ではなくて、〈いま〉を輝くスターたちの写真やポスターがこころの慰めとなり、ささやかな拠り所となる。

 というようなことを考えてみたのだけれど、この読み筋でよいのか、いまひとつ分からない(むむ…)。time を現在の時間と理解することには手応えを感じている。壁の図像が当時のスター(人気俳優?)というのはちょっとどうかなと思う(間違っているような気もします…)。日本語訳では time 「時間」に[現在]と補足して、いまの時代を象徴する図像がピロメラの不穏な鳴き声のエコー、女性の不安定な精神を「お静かに」となだめるニュアンスで訳してみた。

 107行目、階段を歩く足音(靴音)が描写される。既存の解説では「女のところに客が来たのである。女は高級娼婦か」(岩崎宗治)、「情夫の足どりであるが、(……)テレウス王とその末裔(現代人)の足音をほうふつとさせる」(福田陸太郎・森山泰夫)ということなのなのだけれど、足音が「客」や「情夫」というのはしっくりこない(テレウス王の末裔が現代人というのもよく分からない)。足音は Footsteps shuffled と描写されていて、その誰かは足を引きずって(あるいはすり足で)歩いている。ということは足を怪我しているのだろうか? あるいは病人や老人かもしれない。足音の描写からは、そのような健康がそこなわれた人物像が想像される(それが娼婦の客や情夫であれば、それにふさわしい足音の描写~演出があると思うのだけれど…)。

 解説の方で語ったように、わたしには彼女が精神的に不安定な女性のように思われる。エリオットの妻には神経症の症状があり、彼を悩ませたという。彼女にはそんな妻の存在がいくらか投影されているような気もする。エリオットは仕事と妻への心労から体調を崩してスイスのローザンヌで転地療養している(詳細は年譜を参照)。足を引きずる足音は、そのような仕事や家庭のあれやこれやで疲労困憊した彼女の夫ではないのか? 夜遅く疲れた足取りで階段を上がる男、そこに家庭のあたたかなくつろぎはなく、でも他に帰ってゆく場所はない(なんともいえず切ない光景です…)。そのような状況~ヴィジョンは、男女のすれ違いを描くBパートの前ふり(予告)のようでもあり、現代の荒廃を描いた『荒地』の主題とも上手くリンクしてくれると思う(皆さんはどのように思われますか?)。

 参考:足を引きずる人物像について考えているとき、ふと十字架を背負ってゴルゴダの丘を歩くイエス・キリストのことが思い浮かんだ(イエスはピラトの官邸から刑場のあるゴルゴダの丘へと十字架を背負って歩いた、詳細は「ヴィア・ドロローサ」で検索してみて下さい)。暖炉の場面で炎の海を泳ぐイルカにイエス・キリストのイメージが重ねられているとすると、ここもそうだろうかと想像をたくましくしてしまう。現代の十字架を背負わされた男にとって妻の待つ部屋は刑場ということになる(怖いですねぇ~ 参考ということで)。

 108-110行目、髪にブラシをかける女性が描写されてAパートが終えられる。既存の解説では、ジョン・ウェブスター『モルフィ公爵夫人』、ダンテ『神曲』との関連が指摘されている。戯曲『モルフィ公爵夫人』はジャコビアン悲劇の傑作とよばれている作品だそうです。未亡人である公爵夫人は兄たちの意に沿わない再婚をしたことで、子供たちと共に殺されてしまう。彼女がブラシで髪を梳かすことに気をとられているあいだに殺害はおこなわれ、「静寂」が訪れる。ダンテ『神曲』「地獄篇 第26歌」では、罪人(オデュッセウスとディオメーデスの霊)が自らを焼く炎に包まれている。炎の先端が舌のように揺れ動くと、そこから「言葉」が届けられた。

 髪にブラシをかける行為が死を暗示する。暖炉の炎(悲しい光)が業火(地獄の炎)となって彼女の髪を照らす。炎のように広がる毛先から言葉がほとばしる。それから粗野な静寂…… こんなふうに古典を透かして読んでみると、なかなかすごみがある。Aパートは豪華で妖しげな〈もの〉たちから神話の領域に展開されて静寂にゆきつく。この結尾を機嫌の悪い女性のむすっとした沈黙と言ってしまえばそれまでだけれど、行末で提示された savagely still 「獰猛な静寂」(岩崎宗治訳)は、そのような個人を超えてをわたしたちの時代を透視する力強さを持つように思う。わたしの訳では savagely に、詩のタイトル『荒地』(荒廃、荒れ果てた世界)と呼応するイメージで「粗野な~」をあててみた。

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