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鞠二月二日堂

詩と芸術のブログ

T.S.エリオット 詩と人生~年譜

 T.S.エリオット Thomas Stearns Eliot (1888-1965)

T.S.エリオット

 イギリス(生まれはアメリカ合衆国)の詩人、劇作家、評論家。1922年に発表された代表作『荒地』は、後の文学界に大きな影響を与えた。

 詩 目次

 エリオットの詩の日本語訳(原詩、解説、翻訳ノート付き)

年譜 1888-1965

 ※ わたしの興味の範囲でつくったエリオットの詩と人生についての年譜です(評論や詩劇は含まれません)。『荒地』が書かれるまでは(それなりに)詳細ですが、それ以降はあっさりした内容になっています。

 ※ 『荒地』岩崎宗治訳(岩波文庫)、『荒地・ゲロンチョン』福田陸太郎 森山泰夫 注・訳(大修館)を参考にしました(2冊の書籍で内容の詳細が異なるところもあり、こちらの年譜にも不正確なところがあるかも知れません)。

1888 9月26日、アメリカ合衆国ミズーリ州セント・ルイスに生まれる。7人兄弟の末っ子(6番目の子は幼児期に死亡)。ユニテリアン派の教会で洗礼を受ける。

 エリオット家はピューリタンの家系で、1667年にイングランドからアメリカに渡り、祖父の代にマサチューセッツ州ボストンからセント・ルイスに移住した。祖父 William Greenleaf Eliot はユニテリアン派の牧師で、教会や学校の設立など、セント・ルイスの発展に貢献した。父 Henry Ware Eliot は信仰に厚く、実業家で水圧煉瓦会社の社長を務めた。母 Charlotte Champe Eliot も同様にピューリタンの家系で、文学的才能にも優れていた(詩や詩劇などの作品が残されています)。

1906(18歳) ハーバード大学入学。フランス文学、古代および近代哲学、比較文学などを学ぶ(この頃から、インド哲学仏教~東洋の神秘に関心を持つようになる)。

1909(21歳) 大学院にすすむ。シャルル・ボードレール(フランスの詩人、評論家)、アーサー・シモンズ(英国の文芸評論家、詩人)『象徴主義の文学運動』、ジュール・ラフォルグ(フランスの象徴主義詩人)を読み、詩の創作に取り組む。

1910(22歳) フランスに渡る(当時のパリは新しい思想が渦巻いていた)。ソルボンヌ大学で哲学、文学を研究(コレージュ・ド・フランスでのアンリ・ベルクソンの講義に影響を受ける)。

1911(23歳) 帰国。学位論文のためにサンスクリット、古代インド哲学などを研究。

1914(26歳) ドイツに留学(ベルリンに2週間ほど滞在)。第一次世界大戦の勃発によりイギリスに渡る。オックスフォード大学マートン・コレッジでブラッドリー(イギリスの哲学者)の思想を研究。エズラ・パウンド Ezra Pound に会う。パウンドはエリオットの詩人としての才能を高く評価し、また、その活動を手厚く支援した。パウンドのすすめもあり、ロンドンに住む。

1915(27歳) ヴィヴィアン・ヘイウッド Vivienne Haigh-Wood と結婚。両親がこの結婚に反対だったため、経済的な支援を打ち切られる。妻ヴィヴィアンには神経症の症状があり、エリオットを悩ませた。

1917(29歳) 教員などをしたのち、ロイド銀行に職を得る。

1919(31歳) 8月、「ゲロンチョン」 Gerontion を執筆(作品は1920年、詩集『Ara Vos Prec(我いま汝に請う)』に収められた)。10月、『荒地』第1部「死者の埋葬」(草稿)を執筆。

1921(33歳) 銀行の業務と精力的な執筆活動、妻の病気、母のロンドン滞在などの心労から体調を崩し、スイスのローザンヌで転地療養をする(それ以前にも短期の休養を何度かとっていたようです)。3ヶ月の休暇には、パウンドが文学仲間に呼びかけて集めた「援助基金」のお金があてられた(パウンド、いいやつですねぇ~)。『荒地』の草稿が完成する。エリオットはロンドンへの帰路、パリに滞在していたパウンドに草稿を手渡す。当初、800行を越えていた草稿はパウンドの大胆な編集(不必要と思われる場面の削除など)の提案により、433行の作品『荒地』として完成した。

1922(34歳) ヨーロッパの知的交流、文化的統一をこころざして創刊された季刊文芸誌『クライティリオン』の編集長に迎えられる。創刊号(10月)に『荒地』 The Waste Land を発表(アメリカでは『ダイアル』11月号に発表された)。

1924(36歳) 季刊雑誌『コメルス』(パリ)に『空ろな人間たち』 The Hollow Men 「I」を発表(執筆は1922年の冬頃、その後「II」~「V」が断続的に書かれ、『詩集 1909-1925年』に収められた)。

1925(37歳) ロイド銀行を退社。フェイバー・アンド・ガイヤー出版社の編集部に勤める。

1927(39歳) イギリスに帰化英国国教会(16世紀、ローマ教会から独立したイギリスの国教会)の会員になる。

1928(40歳) 小冊子『ランスロット・アンドルーズ』の序文で「文学では古典主義者、政治では王党派、宗教ではアングロカトリック」と自らの立場を語る。

1930(42歳) 『灰の水曜日』 Ash- Wednesday を出版(英国国教会への改宗が色濃く反映された作品)。

1943(55歳) 『四つの四重奏』 Four Quartets アメリカ版を出版(イギリス版は1944年に出版)(後期の代表作)。

1948(59歳) 妻ヴィヴィアン死去。

1948(60歳) メリット勲位を授けられる。ノーベル文学賞を受賞。

1957(68歳) 秘書をしていたエスメ・ヴァレリーフレッチャー Esmé Valerie Fletcher と結婚(ヴィヴィアンとの結婚生活ではいろいろと苦労したようですが、ヴァレリーとの結婚生活は幸せだったようです…)。

1965(76歳) 1月4日、ロンドンで死去。

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