T.S.エリオット 「荒地」 チェスのゲーム A Game of Chess 《1》 日本語訳 解説
海外の詩の翻訳シリーズ。
T.S.エリオット『荒地』 The Waste Land (1922)から「チェスのゲーム」 A Game of Chess 日本語訳と解説(『荒地』日本語訳だけをまとめて読みたい方はこちら)。
※ [ ]は、わたしの補足です。「 」は原詩の表記に従いました。
※ 『荒地』岩崎宗治訳(岩波文庫)、『荒地・ゲロンチョン』福田陸太郎 森山泰夫 注・訳(大修館)を翻訳と解説の参考にしました。
日本語訳 チェスのゲーム
II. チェスのゲーム
椅子は彼女を収めて つややかな玉座のように
大理石の上で燦然と輝いた 姿見の支柱は
ブドウの房と蔓の彫り物で飾られ そこから
金色のキューピットが こちらを覗っていた 80
(もうひとりは翼で目隠しをしていた)
七枝の燭台[メノーラ]が炎を増して
テーブルの上に怪しく光を映すと
彼女の豪華な宝石たちが きらきらと
サテンの小箱からあふれ出る輝きで応えた 85
蓋を外された象牙や色ガラスの小瓶には
風変わりな合成香料[安物の香水]
乳液 白粉 化粧水が潜んでいた その悩ましい香気が
混じり合い 感覚=嗅覚を混乱させ 溺れさせた
窓から入ってくる新鮮な空気に掻き回された香気は 90
長く伸びた蝋燭の炎を増長させながら立ち昇り
その煙を勢いよく格天井に吹きかけて
規則正しく並んだ格間[装飾]を歪め 攪乱した
大きな海の流木が銅の地金と共に
カラフルな石に囲まれて グリーンとオレンジに燃えていた 95
悲しい光のなかを透かし彫りのイルカが泳いだ
古風なマントルピースの上に飾られた絵は
森の情景を窓から眺めているようで
それは鳥へと姿をかえたピロメラだった 野蛮な王によって
彼女は荒々しく犯された それでもナイチンゲールは 100
神聖なその声で不毛の大地をみたした
彼女は鳴きつづけ いまも世界は〈声〉を追いかけている
穢れた耳に「ジャグ ジャグ」と鳴き声が響く
それとは別の枯れた時間[現代]の切り株が語った
壁の人物たちが こちらを見据え 105
身を乗り出し 寄り掛かり 部屋を取り巻いてお静かにとなだめた
足を引きずり階段を歩く靴音が聞こえた
燃えさかる炎に照らされて 彼女が髪にブラシをかけると
毛先は火の色に染まって広がり
白熱は言葉になった それから粗野な静寂が訪れる 110
「今夜は神経がたかぶって具合がよくないの 一緒にいて
「なにか話をして なぜ黙っているの? 喋りなさいよ
「なにを考えているの? 考えていることはなに? なに?
「あなたの考えていることは さっぱり分からない 考えは」
我々はネズミの路地にいる と私は考える 115
そこは死んだ人間が自分の骨を見失うところ
「あの音はなに?」
ドアの下から風が入ってくるんだよ
「いまもしているでしょ? 風はなにしているの?」
なにもしないよ なんでもないよ 120
「あなたは
「なにも知らないの? なにも気がつかないの? なにも覚えて
「いないの?」
私は思い出す
その真珠は 彼の瞳だった 125
「あなた 生きてる 生きてない? 頭は空っぽ?」
しかし
おおおお あれは シェイクスピヒアリアン・ラグ
とても エレガントだ
そして インテリジェントだ 130
「いまからなにをすればいい? なにしようかな?
「このまま部屋を飛び出して 通りを歩いてみようか
「髪を下ろしたまま[怠惰に] 明日はなにをしたらいい?
「私たちは なにをすべき?」
十時に熱いシャワーを浴びて 135
もし雨だったら 四時にセダンの車
そしてチェスに興じる
執拗に目を見開いてドアのノックを待ちながら
リルの亭主が除隊になったとき わたし言ったの
はっきりとね 彼女に言ってやった 140
お急ぎ下さい 時間[閉店]になります
アルバートが帰ってくるでしょ もう少し賢くなりなさいよ
彼 知りたがるでしょうね 歯を入れるためのお金のこと
どうしたのかって そのとき わたしも一緒にいたんだから
すべて抜いてしまって リル 綺麗な歯にするんだ 145
言っていたでしょ 本当だよ ぼくには耐えられないんだって
わたしだってそうよ アルバートが気の毒よ って言った
四年のあいだ兵役に就いていたのだから よい思いがしたいのよ
彼のことつれなくしたら ほかにもいるんだから って言った
あら ほかにね って彼女が言うから そんなものよ って言うと 150
誰に感謝することになるのかしら ってじっと見つめられた
お急ぎ下さい 時間になります
あなたにそのつもりがないのなら 好きにすればいい って言った
あなたじゃなきゃダメってことないのよ ほかにいくでしょ
アルバートに捨てられるわ ちゃんと話はしておきましたからね 155
恥ずかしいわよ って言った ふるぼけたアンティークみたいよ
(彼女 まだ三十一よ)
浮かない顔して 仕方ないのよ って言っいてた
クスリのせいよ 子供を堕ろしたのよ って
(彼女は五人の子持ちで 末っ子のジョージのときに死にかけた) 160
薬剤師は大丈夫だって でも それからおかしくなった
本当にお馬鹿さん って言った
アルバートが一緒に寝たいっていうなら そうよね
子供を望まないなら どうして結婚しているの って言った
お急ぎ下さい まもなく時間です 165
そして日曜日にね 帰ってきたアルバートとギャモンを食べた
夕食に招いてくれたのよ 出来たての上等な奴を食べようぜって
お急ぎ下さい 時間になります
お急ぎ下さい 時間になります
おやすみ ビル おやすみ ルウ おやすみ メイ おやすみ 170
バイバイ おやすみ おやすみ
おやすみ ご婦人方 おやすみ 素敵なご婦人方 おやすみ おやすみ
原詩 A Game of Chess
The Waste Land
T. S. Eliot
II. A Game of Chess
THE Chair she sat in, like a burnished throne,
Glowed on the marble, where the glass
Held up by standards wrought with fruited vines
From which a golden Cupidon peeped out 80
(Another hid his eyes behind his wing)
Doubled the flames of sevenbranched candelabra
Reflecting light upon the table as
The glitter of her jewels rose to meet it,
From satin cases poured in rich profusion; 85
In vials of ivory and coloured glass
Unstoppered, lurked her strange synthetic perfumes,
Unguent, powdered, or liquid—troubled, confused
And drowned the sense in odours; stirred by the air
That freshened from the window, these ascended 90
In fattening the prolonged candle-flames,
Flung their smoke into the laquearia,
Stirring the pattern on the coffered ceiling.
Huge sea-wood fed with copper
Burned green and orange, framed by the coloured stone, 95
In which sad light a carvèd dolphin swam.
Above the antique mantel was displayed
As though a window gave upon the sylvan scene
The change of Philomel, by the barbarous king
So rudely forced; yet there the nightingale 100
Filled all the desert with inviolable voice
And still she cried, and still the world pursues,
"Jug Jug" to dirty ears.
And other withered stumps of time
Were told upon the walls; staring forms 105
Leaned out, leaning, hushing the room enclosed.
Footsteps shuffled on the stair.
Under the firelight, under the brush, her hair
Spread out in fiery points
Glowed into words, then would be savagely still. 110
"My nerves are bad tonight. Yes, bad. Stay with me.
"Speak to me. Why do you never speak? Speak.
"What are you thinking of? What thinking? What?
"I never know what you are thinking. Think."
I think we are in rats' alley 115
Where the dead men lost their bones.
"What is that noise?"
The wind under the door.
"What is that noise now? What is the wind doing?"
Nothing again nothing. 120
"Do
"You know nothing? Do you see nothing? Do you remember
"Nothing?"
I remember
Those are pearls that were his eyes. 125
"Are you alive, or not? Is there nothing in your head?"
But
O O O O that Shakespeherian Rag—
It's so elegant
So intelligent 130
"What shall I do now? What shall I do?"
"I shall rush out as I am, and walk the street
"With my hair down, so. What shall we do tomorrow?
"What shall we ever do?"
The hot water at ten. 135
And if it rains, a closed car at four.
And we shall play a game of chess,
Pressing lidless eyes and waiting for a knock upon the door.
When Lil's husband got demobbed, I said—
I didn't mince my words, I said to her myself, 140
Hurry up please its time
Now Albert's coming back, make yourself a bit smart.
He'll want to know what you done with that money he gave you
To get yourself some teeth. He did, I was there.
You have them all out, Lil, and get a nice set, 145
He said, I swear, I can't bear to look at you.
And no more can't I, I said, and think of poor Albert,
He's been in the army four years, he wants a good time,
And if you don't give it him, there's others will, I said.
Oh is there, she said. Something o' that, I said. 150
Then I'll know who to thank, she said, and give me a straight look.
Hurry up please its time
If you don't like it you can get on with it, I said,
Others can pick and choose if you can't.
But if Albert makes off, it won't be for lack of telling. 155
You ought to be ashamed, I said, to look so antique.
(And her only thirty-one.)
I can't help it, she said, pulling a long face,
It's them pills I took, to bring it off, she said.
(She's had five already, and nearly died of young George.) 160
The chemist said it would be alright, but I've never been the same.
You are a proper fool, I said.
Well, if Albert wont leave you alone, there it is, I said,
What you get married for if you dont want children?
Hurry up please its time 165
Well, that Sunday Albert was home, they had a hot gammon,
And they asked me in to dinner, to get the beauty of it hot—
Hurry up please its time
Hurry up please its time
Goonight Bill. Goonight Lou. Goonight May. Goonight. 170
Ta ta. Goonight. Goonight.
Good night, ladies, good night, sweet ladies, good night, good night.
参考:https://en.wikisource.org/wiki/The_Waste_Land
解説 勝者のいないゲーム
巧みに描き分けられた女性たち(女性像)に注目しつつ語ってみたい(内容の詳細は「翻訳ノート」で語る予定にしています)。
幻滅を誘う女性像
「チェスのゲーム」は、おおきく3つのパート(A,B,C)に分けることが出来る。これらの各パートには、それぞれに個性的な女性(「死者の埋葬」のタロット占いで提示された「さまざまな境遇の女」に呼応する)が置かれる。それぞれのパートを簡単にまとめてみよう。
77~110行目 Aパート
豪華な部屋に独りでいる女王様ふう(気取り)の女性。女性は、お気に入りの「ものたち」に囲まれている。部屋の鏡(姿見)や宝石(装身具)、濃密な「女性を象徴する匂い」は彼女自身の自己愛の反映のようにも思われる。部屋のありさまが女性の内面と結びつけられて語られる。精神的に不安定で、「さみしい女性」にありがちな女の部屋の情景。
111~138行目 Bパート
女性と男性(恋人、あるいは夫婦)の成り立たない会話。女性が一方的に話しかけ、男性が「こころの声」で返す。男性にとっては、いささかうんざりする状況になっている(いい加減にしてくれよ… と男性の嘆きが聞こえてきそうです)。男女の性愛への展開は、はじめから失われている。ちこらの女性も精神の不安定さが感じられる。
139~172行目 Cパート
パブで女性が友人(たぶん女性)に、共通の友人であるリルとアルバート(リルの夫)の話をする。女性同士の会話でよくある、席にいない女友達へのあけすけな悪口といったところだろうか(女って怖いですねぇ~)。リルが老け込んでしまったのはクスリのためだという。語り手の女性は、アルバートに気があるように思われる。
既存の解説では「チェスのゲーム」について、つぎのように語られている。
『荒地』第II部は、生と死と再生のリズムを逸脱した不毛な性愛のエピソードの蒐集になっている。
※ 岩崎宗治の解説
欲情の世界を、現代を舞台に close-up するのが第2章の主眼である。
※ 福田陸太郎・森山泰夫の解説
A~Bパートの要約で語ったように、わたしに見えているは、それとはやや異なる。Aパートの部屋は、合成香料(安物の香水)や化粧品の類いのむっとする匂いに満ちている。これは男性を欲情させるための仕掛け~装置だろうか? おおくの男性は、このような匂いに辟易してしまうのではないだろうか(どうですか?)。Bパートの男性は女性の語ることに興味がなく、性的な行為へと誘うそぶりもない。女性もまたそれを求めていない。Cパートではクスリのために女性としての輝きを失った友人(リル)が語られ、それを語る女性もまた魅力的とはいえない(素敵だなと思っていた女性がパブであのような話をするのを偶然聞いてしまったら、男性としてはいささかがっかりしてしまうのではないだろうか)。
こんなふうにみてゆくと、「チェスのゲーム」で提示されているのは、恋愛の感情を抱かせるような魅力的な女性の不在であり、あらかじめ失われた性愛や欲情(その不可能性)のようにわたしには思われる。
『荒地』第I部「死者の埋葬」では、ホーフガルテンで会話を楽しんだマリイや「ヒヤシンス嬢」のような魅力的な女性が登場する。そして彼女たちは「失われた女性」として描かれる(わたしの理解)。彼女たちが失われたということは、あとに残されたのは(必然的に)魅力的ではない女性、つまり男性から見て幻滅を誘う女性ということになるのかもしれない。そのような女性たちを現代の情景のなかに置いて、第II部「チェスのゲーム」が展開される。
このような第II部の女性像を、(週刊誌的な眼差しで)エリオットの私生活と結びつけて考えると、そこにエリオットの妻ヴィヴィアン Vivienne Haigh-Wood Eliot の存在を透かしてみることも出来るかも知れない(A~Bパート)。 ヴィヴィアンには神経症の症状があり、エリオットをあれこれと悩ませたという。エリオットがスイスのローザンヌでの転地療養が必要なほど消耗してしまった背景には、銀行の業務や精力的な執筆活動のこともあるけれど、やはり妻の病気の影響がおおきかったのではないだろうか(半ば破綻した結婚生活~女性への幻滅のラインが見え隠れする…)。
(エリオットと妻ヴィヴィアンについては、いろいろと研究されているみたいなので調べてみると面白いかも知れません)
勝者のいないゲーム
本文に組み込まれた「チェスのゲーム」(137行目)については、原注に「ミドルトン『女よ、女に心せよ』のなかのチェスのゲームを参照」とある。第II部のタイトル「チェスのゲーム」 A Game of Chess については、岩崎宗治の解説に詳しい。
題「チェス遊び」は、トマス・ミドルトンの『女よ、女に心せよ』(1621年初演)二幕二場からとった語(137行目に、『女よ、女に心せよ』からの引用がある)。ミドルトンの劇の二幕二場では、美しい人妻ビアンカに欲望を抱くフロレンス公爵のために、策謀家のリヴィアはビアンカの義母をチェス遊びに誘い、そのあいだに別の部屋で、まるでチェスの攻防と照応するように公爵がビアンカを誘惑する。Game という語は、もともと「遊び」、「性愛の行為」、「狩猟の獲物」、「性愛の対象としての女」などを意味するが、『荒地』では「チェス遊び」は「性愛」の象徴。
ということですが…… 本文に組み込まれた「チェスのゲーム」(137行目)は、その役割が『女よ、女に心せよ』とはおおきく異なっている(ある意味反転している)。
『女よ、女に心せよ』では、公爵がビアンカを誘惑するために(その恋の成就のために)チェスが利用される。では「チェスのゲーム」(Bパート)はどうかというと、当の男性自身がチェスに興じている(あれ?)。
自分がチェスをしてしまっては、女性と恋仲になることは出来ない(ここはエリオット流のジョークで笑うところ?)。Bパート全体の流れからみれば、男性は女性から逃亡(逃避)の場所としてチェスが選ばれているように思われる。
魅力的な女性との恋愛の成就を目指して、男性は知恵を絞り、作戦を練って、あの手この手を試みる。それを岩崎宗治の解説で語られている「チェスの攻防」としてとらえることは理解できる。でも『荒地』第II部「チェスのゲーム」に於いては、そのうような恋愛の成就、きみのこころをチェックメイト! というような状況が訪れる可能性はまったく期待できない。
恋の駆け引き~性愛が可能になるには、当然、美しい人妻ビアンカのような魅力的な女性の存在が不可欠になる。これまで語ってきたように「チェスのゲーム」では、そのような魅力的な女性は、はじめから失われている。「チェスのゲーム」を恋愛や性愛の視点から眺めると、それは「勝者のいないゲーム」ということになるのかもしれない。
それでも、チェスの盤上=わたしたちの暮らす世界で、ゲーム=人生は不可避的にすすんでゆく。そこでは、どのような「つぎの一手」が可能だろうか? じっくりと考えれば、形勢を一気に逆転できるような、魔法の一手を探しあてることが出来るだろうか? それとも(残念なことではあるけれど)、あれこれ考えるだけ無駄なのだろうか? どうしたものか……
おやすみ、ビル。おやすみ、ルウ。おやすみ、メイ。おやすみ。
バイバイ。おやすみ、おやすみ。
おやすみ、みなさん、おやすみ、ご婦人方、おやすみ、おやすみ。
※ 岩崎宗治訳
「チェスのゲーム」はこんなふうに終えられる。
つぎの一手は「おやすみ」することらしい…… 眠ってしまえば、あれやこれやのご婦人方に気を病むこともない。現在の状況では、最良の一手なのかもしれない。
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