先生
午後四時十五分、作家のO先生と都心から特急列車〈てまり〉に乗った。Y駅で降車。はじめて訪れる街だった。先生は何度か訪れたことがあるらしかった。長く伸びてゆく影を追いかけるようにポプラの並木道を歩いた。
大きな噴水のある公園のベンチに先生と並んで腰掛けた。膝の上のバスケットからサンドイッチの折り詰めをふたつ取り出した。飲み物は魔法瓶のミルクティ。このような屋外での自由な飲食を先生は好まれた。野ねずみの食事会とわたしたちは呼んでいた。
月に一度、先生の原稿を読み上げるアルバイトをしている。寡作で知られる先生は原稿のチェックに余念がない。
ぼくの作品は音楽的だからね、朗読によって鍛錬されるべきなんだ。自然な息のリズムをそこなわない文章がいい。大切なのは文字が声になる瞬間なんだ。
薄紫色の空に街灯の明かりが浮かんで見えた。バウハウスを連想させるモダンな外観のホテルは背の高い針葉樹の木立に囲まれていた。
あれ? エントランスはコンクリートむき出しの床だった。フロントのカウンターは半透明のビニールシートで覆われていて、わたしたちの他には誰もいない。改装工事中なのかな? 寡黙な先生は終始無言だった。
エレベーターのランプは消えていた。階段を使って三階まで上がった。三〇八号室の扉を開けると(鍵は掛かっていなかった)正面の床にぽっかりと矩形の穴があいていた。下りの階段の入口だった。
今日は特別な日だということにようやく気がついた。すべての物事にはぴったりの場所と時間がある。
姿勢を低くして階段の奥をのぞき込んだ。足もとを照らすオレンジ色の明かりが等間隔にどこまでもまっすぐに伸びていた。
「どうしてここに階段があるのか?」先生は子供っぽい笑顔だった。「どこかで現実が夢にすり替わったのかも知れない。でも、ぼくたちにその境界を知ることは出来ないんだ」
いまが夢にすり替えられた現実なら、現実から夢に移し替えられた先生とわたしはいまどこで何をしているのだろう? 夢の永遠を旅する〈てまり〉の座り心地のよい座席から、魔術的に入り組んだ海岸線をこの瞬間も眺めているのだろうか。
「今日は原稿、読まなくていいんですか?」
「ああ、いいんだ」
先生のあとにつづいた。言葉にならない予感は荒々しい天空の風の唸りのようだった。こんなときにも、生来のせっかちな性格は出てしまう。いそがなくていい。階段を降りる先生の靴音は繊細なリズムだった。
詩作メモ
この作品に着手したとき、はじめに地下の情景が見えていた。地下の情景を描くためには、登場人物たちを地下に導かないといけない。地上から地下への移行を簡素に3行で描くことも出来る。でも、それだといまひとつ雰囲気が出ない。
地上から地下への道のりをいくぶん詳細に描いてみることにした。いくつかの要素をあらたに盛り込んで、階段を降りるところまで書きすすめたときのこと、ふと疑問に思った。この階段の先にあるのは、わたしがはじめに見ていた「地下の情景」なのだろうか?
あれこれ考えはじめると分からなくなった…… 物語としては、地上から地下への道のり=変移として適切に機能している気がするので、ひとまずこれで仕上がりということにしておこう。
ご案内
- 次回 不思議だと思いませんか?
- 前回 蛇遣い
- 詩 目次
関連の詩
- 地下道をゆくのがよい [先生]
- 世界平和会議 [先生]