ディキンソン 「百年の後には」 After a hundred years
海外の詩の翻訳シリーズ。
エミリー・ディキンソン、第5回「百年の後には」 After a hundred years (1147番 1869年頃)日本語訳と解説(ディキンソンの目次と年譜はこちら)。
※ 『ディキンスン詩集』新倉俊一訳・編――安藤一郎訳、他(思潮社)、野田寿訳(朝日新聞)を翻訳の参考にしました。
日本語訳 百年の後には
百年の後には
その場所を知るひともなく
そこで演じられた苦悩も
平和に鎮まる
雑草が無遠慮に茂り
見知らぬ訪問客はさまよい歩いて
亡き先人の
孤独な墓碑銘をなぞり読んだ
夏の草原に吹く風が
道[道のり]を回想する――
記憶からこぼれ落ちた鍵を
本能が拾い上げる――
原詩 After a hundred years
After a hundred years
Nobody knows the Place
Agony that enacted there
Motionless as Peace
Weeds triumphant ranged 5
Strangers strolled and spelled
At the lone Orthography
Of the Elder Dead
Winds of Summer Fields
Recollect the way — 10
Instinct picking up the Key
Dropped by memory —
参考:https://en.wikisource.org/wiki/After_a_hundred_years
※ 原詩は版によってカンマやダッシュ、大文字、小文字の使い分けなどに違いがある場合があります。
解説 いまある苦悩を百年後の未来から見つめる
以前、この詩はディキンソンの秘めた恋の苦悩を背景に歌われたものではないか、というような解説を読んだ記憶がある(曖昧な記憶なので思い違いの可能性もあります)。詩は3つの連からつくられていて、第2連「孤独な墓碑銘」の情景を起点に詩が着想された(組み立てられた)とすると、第3連「記憶からこぼれ落ちた~」の意味がよく分からなくなってしまう。この詩は、いまある苦悩を百年後の未来から眺めたもの(とらえようとしたもの)として考えてゆくのがよいのではないか。そのような読み筋から詩の組み立てを見てゆこう。
第1連――百年後の未来
いまから百年後の未来が詩の舞台として設定される。どのような苦悩~こころの苦しみも百年後には消失している。なぜなら、苦悩する〈わたし〉は、この世に存在していないのだから…… (いまを生きてあることの苦しみから死者の平和への移行)
第2連――死者の眠る場所
百年後が具体的な情景として展開される。死者の平和が(人間が管理する墓地ではなく)、草木たちの自然のなかに提示される。「見知らぬ訪問客」に詩の読者をかさねることも出来るかもしれない。
第3連――自然と本能
第1連で提示された「苦悩」(その記憶)が夏の草原に吹く風~おおきな自然のイメージ~ひとの日常を超えた視点によって回想される。百年という時間の作用によって濾過された記憶は〈わたし〉になにを伝えてくれるだろう。鮮やかに覚えていることではなくて、忘れてゆくことのなかから与えられるものがある。〈鍵〉は意識下に沈んだ記憶からのメッセージ(啓示)であり、自然によって導かれた直観=本能が、その〈鍵〉=「苦悩からの贈り物」を拾い上げる。
どうだろう、こんなふうに読んでゆくと素敵な詩だと思いませんか? (この詩は、わたしのお気に入りです)
翻訳ノート
解説で語った詩の展開~組み立てをふまえつつ、細部をみてゆこう。
1~4行 第1連
3行目 Agony 手許の辞書には「(精神または肉体の)激しい苦痛、もだえ苦しみ、苦悩」とあり、ここでは精神の苦しみと理解して「苦悩」と訳した。
4行目 Motionless as Peace 既存の訳では「平和のように静か」(安藤一郎訳)、「平和のように 静かである」(野田寿訳)となっている。ここは、3行目「演じられた苦悩」に対比させた組み立てになっているので「平和」+「静か」の組み合わせは表現としてやや弱い(ものたりない)ように思われた。Motionless 「動かない、静止した」に「鎮まる」をあてて「平和に鎮まる」としてみた(詩の組み立てからの意訳)。
5~8行 第2連
5行目 triumphant 「勝ち誇った、得意の、意気揚々とした」は「無遠慮」をあててみた。「我がもの顔に~」(既存の訳)でもよかったかもしれない。
6~8行目 spelled~ は、歳月により判読しづらくなった墓碑銘の文字をひと文字ずつ指先でなぞりながら読んだという情景に理解して訳した。
9~12行 第3連
10行目 Recollect 「思い出す、回想する」には「忘れたことを思い出そうとする努力(その強調)」のニュアンスが含まれる。「思い出す努力」→「すべてを鮮明に思い出せるわけではない」→「意識下に沈んだ記憶(忘却)」が示唆され、11行目 key 〈鍵〉へと展開される(わたしの理解です)。
10行目 the way 「道」は、かつて歩んだ道(人生)のイメージだろうか。[道のり]と意味を補足した。
11行目 key 「鍵」を「(問題・事件などの)解答, 解決のかぎ」のイメージでとらえると、冒頭で提示された苦悩から救済への流れ、その可能性が見えてくる(このあたり、参考ということで…)。
12行目 Dropped by memory は、これまでの考察をふまえつつ「記憶からこぼれ落ちた」と含みのある表現にしてみた(どうだろう…)。
ディキンソンの詩は最小限の言葉で巧みに組み立てられている。日本語に訳すときもそのようでありたい。でもこれがなかなかむつかしい…… いずれ訳に手を入れることになりそうな気もする。時間の濾過作用に期待しよう。
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- エミリー・ディキンソン 詩と時代~年譜 (目次)
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